天性のホームランアーチストと呼ばれた男、田淵幸一さん。14日に野球殿堂博物館が、今年の殿堂入りを発表し、エキスパート部門で田淵幸一さんが選ばれました。
大学時代からライバルであり親友だった山本浩二さんが野球殿堂入りしたのは12年前。その後2017年には故星野仙一さんが野球殿堂入りをしました。
星野仙一さんが亡くなる前に、田淵幸一さんが野球殿堂入りをした際には3人で祝勝会をやろうと約束をしたのですが、果たせないまま星野仙一さんは天国へと旅立ってしまいました。
亡き親友との約束を果たせなかった田淵幸一さんは、天国にいる親友に野球殿堂入りした事を報告したそうです。
そんな田淵幸一さんですが、現役時代を知らない方も多くいると思います。今回は、田淵幸一さんの現役時代や離婚した前妻、2人の息子さんについても調査してみましたので、最後までお付き合いください。
田淵幸一(元阪神タイガース)プロフィール・経歴・出身地
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190911-00000005-baseballo-base
1946年9月24日生まれ、東京都豊島区出身、身長186㎝、体重90㎏
中学校在籍中に野球を始めた田淵幸一さん。法政大学第一高等学校に進学後、1年生で秋季東京都高等学校野球大会に出場。この時はキャッチャーとして出場をしました。
3年生の時に全国高等学校野球選手権東京大会に出場し、準々決勝まで進むも日大二高に9回サヨナラ負けを喫し、全国選手権への出場はなりませんでした。
卒業後、法政大学経済学部に進学。1年生の春から東京六大学野球リーグに出場します。この年、フィリピンのマニラで行われた第6回アジア野球選手権大会野球の日本代表に選出され日本の優勝に大きく貢献しました。更に2年後には同大会で中心打者として優勝を飾る事となりました。
リーグ通算97試合に出場、3度のリーグ優勝。通算22本塁打という記録を残しています。
1968年のドラフト会議で阪神タイガースから1位指名を受け入団。ドラフト会議の前には読売ジャイアンツに入団する事が確実視されていました。ジャイアンツ入りは本人も望んでいた事だったようですが、関西球団である阪神タイガースの指名を受け入れられず、社会人野球入りも選択肢にあったとか。
そんな最中、ドラフト会議の2週間後に田淵幸一さんとジャイアンツのスカウトが密会していたという報道が出てしまいました。田淵幸一さんはあっさりと真相を告白してしまい、田淵幸一さんの実家には非難の電話が殺到しまうという事態に。
その後、家族や大学の理事や監督を交えた話し合いで、阪神入りが決まったそうです。
1年目からレギュラーに定着した田淵幸一さんは22本のホームランを放ち新人王を獲得します。捕手としては初めての受賞となりました。
2年目の1970年8月に左こめかみに死球を受け昏倒し、救急搬送され戦線から遠のく事となりました。ケガは翌年まで尾を引きましたが打撃フォームを改善した1972年には34本のホームランを記録しました。
その後も活躍を続け、数々の記録を残しましたが1978年に西武ライオンズとのトレードが決まってしまいます。4(西武ライオンズ)対2(阪神タイガーズ)の大型トレードとなったのですが、田淵幸一さんは大いに不満があったようで、テレビのインタビューで不満をぶちまけていました。
1980年には一塁手に転向し、40本のホームランを記録。1982年、1983年にはリーグ優勝と日本一に。シーズン途中の7月に左手に死球を受け骨折。
翌1984年のシーズン限りで現役を引退しました。
田淵幸一の息子(次男)について
田淵幸一さんには2人の息子さんがいます。長男の田淵裕章さんはフジテレビのアナウンサーとして活躍されています。長身のイケメンアナウンサーは、「出てこいや!」でお馴染みのRIZINなどの実況をしています。
次男の田淵帝次さんは、青山学院で野球をしていましたが卒業後は俳優として活動をしていたようです。
2000年公開の「独立少年合唱団」という映画に出演をしていたのですが、残念ながら画像などは見つかりませんでした。
伊藤淳史さんや香川照之さん、泉谷しげるさんなど豪華なメンバーが出演されています。
そして、現在も俳優の仕事をしているのかと言うと、どこかの事務所に所属されている様子もなく、俳優としては活躍はされていないようです。
「電通」で働いているのではないか、という噂があり、調べてみたところ、ハッキリとした事はわからなかったのですが「フジサンケイグループ広告大賞」の受賞作品の名前の中に田淵帝次((株)電通)とありました。
同姓同名の可能性もありますが、ご本人である可能性も高いのではないかと思います。
田淵幸一前妻との離婚理由とは
https://www.jiji.com/jc/d2?p=mos002-05730296&d=004soc
田淵幸一さんは、1975年1月17日に谷口博子さんと結婚式を挙げました。しかし数年後に離婚をします。ジャネット八田さんとの不倫を週刊誌に書かれ、騒動となりました。
この件で、田淵幸一さんは球団から1週間の謹慎処分を受ける事となります。
その前後に、谷口博子さんとの離婚騒動があり一時は裁判沙汰にまで発展していたそうです。その間には、ゴルフ中に足首を捻り1カ月以上もギプスをする生活を余儀なくされていたようです。
その年のオープン戦では右ひざを打撲し、1全治10日のケガをしてしまいます。その後はスランプに陥り、成績を出す事もできませんでした。まさに、踏んだり蹴ったりとはこの事。
週刊誌に書かれる前から谷口博子さんと離婚する事が決まっていたかどうかは分かりませんが、ジャネット八田さんとの関係が離婚に関係していた事は間違いないでしょう。
そして謹慎処分中にジャネット八田さんと正式に結婚する事を発表。お子さんを授かっていた事もあり、結婚を急いだのでしょうか。
田淵幸一の現在の嫁とは
http://www.ak-hb.jp/hattayuka.html
先述した通り、谷口博子さんと離婚した田淵幸一さんは不倫相手であったジャネット八田さん(八田有加さん)と再婚をしました。
ジャネット八田さんが初めて田淵幸一さんを見て、ひとめ惚れをしてしまったようです。「なんてハンサムなの」と思ったとか。しかし、声をかけたのは田淵幸一さんだったそうで、すき焼きに行こうなどと誘ったそうですよ。
携帯電話も無い時代の事ですから、知人を介してのお誘いだったようです。
現在もお2人は仲が良く、2人でテレビ出演をする事もあったようです。お孫さんもいて、幸せな生活を送っているようです。
田淵幸一が受けた死球
https://www.sankei.com/west/news/170112/wst1701120005-n1.html
1970年8月26日、プロ2年目の広島カープ戦。外木場義郎投手が投じた1球が田淵幸一さんの左側頭部に直撃。ヘルメットが無い部分にまともに当たってしまいました。
倒れ込んだ田淵幸一さんはぴくぴくと痙攣し、耳、鼻、口、目から出血していたと言います。ベンチから飛び出し近づいた江夏豊さんは、その姿をみてもうダメだと思ったそうです。
すぐさま救急車で病院へ運ばれ、命に別状は無かったものの、かなりの重症であったそうです。
この四球がきっかけとなり、耳当て付きのヘルメットが義務付けられたようです。しかし、視野が狭くなるという理由で、耳当てヘルメットに異議を唱えたのが衣笠祥雄さんだったようです。
現在では耳当てつきヘルメットが当たり前となり、フェイスガードも主流となる傾向にあります。選手生命はおろか、命までも奪われてします可能性のある事ですから、安全に関しては、念には念を入れる事は良い事なのではないでしょうか。
田淵幸一の若い頃の画像
https://www.jiji.com/jc/d4?p=tky089-img512&d=d4_spo
とても美人な奥様が一目惚れしてしまうくらいですから、相当なイケメンだったと思われる田淵幸一さん。
若い頃の画像を見てみましたが、笑顔がとても素敵なイケメンでした。キャッチャーマスクを被っているのがもったいない感じすらしてしまいますね。
現在でも、ダンディーな田淵幸一さん。これからも元気に野球界を盛り上げて欲しいですね。