日本のプロ野球に、海を越えてやってきた「助っ人外国人」は数多くいます。
かつては、晩年のメジャーリーガーの最後の活動場所として、日本にやってくるケースが多かったですが、
今では、メジャーリーグでも活躍が有望視されている選手が日本にやってくるケースも少なくありません。
そんな「助っ人外国人」選手たちも、メジャーリーグで華々しい成績を残していたものの、日本のプロ野球に適応できず、苦心のままに退団する選手も多くいます。
助っ人外国人として来日した選手を見てみれば、レギュラーとして活躍した選手よりも、成績が残せないまま退団していった選手のほうが多いのではないでしょうか。
活躍できた助っ人外国人選手はわずか一握り。異国の地で活躍した選手は「伝説の助っ人外国人」として後世に語り継がれていきます。
今回はそんな数少ない「伝説の助っ人外国人」のうちの一人、
近鉄や巨人、オリックスで活躍した、タフィローズ氏について紹介していきます。
タフィローズのプロフィール・経歴・成績・出身地について
引用元:Celeby
タフィローズは、本名「カール・デリック・ローズ(Karl Derrick Rhodes」。
1968年8月21日生まれの51歳(2019年12月現在)。身長182cm、体重100kgの選手でした。
タフィローズは選手当時の登録名であり、その由縁については後述にて紹介します。
アメリカ合衆国。オハイオ州シンシナティ出身で、ソフトボールをしていた母親の影響で野球を始めました。
選手当時の登録名となっている「タフィ」については、野球を始めた幼少時代に、顔面に死球を受けて鼻血を出した翌日の試合に出場したことから、
当時のコーチが「こんなタフな子供はいない」と言ったことから「タフィ」との愛称が付いたそうです。
そしてこの愛称である「タフィ」を、後に自らの登録名として使用することになったそうです。
1986年のドラフト3巡目でヒューストン・アストロズに指名を受け、入団。
当時は俊足の中堅手として期待されていました。そして入団後の1A時代には年間で65盗塁を決めるほどの俊足であったようです。
アストロズで1993年途中までプレーした後に、シカゴ・カブスへ移籍。
翌1994年のニューヨーク・メッツ戦との開幕戦に出場。第1打席から3打席連続本塁打を放ち、鮮烈な印象を残したものの、その後は不調が続き、メジャーに定着することができず、マイナー暮らしが続く日々となりました。
その後、1995年にはボストン・レッドソックスへ再び移籍。
レッドソックス移籍後も思うような活躍ができず、この歳限りでFA(事実上の自由契約)となってしまいました。
そして1995年、このタフィローズに注目した近鉄バファローズが獲得。日本でプロ野球選手のキャリアをスタートすることになりました。
移籍1年目の1996年から日本のプロ野球に順応し、リーグ最多の130試合に出場。
打率.293、27本塁打、97打点を挙げ、チーム3冠王に輝きました。
翌1997年も好調をキープ。本塁打こそ少なく終わったものの、自身初の3割、そして初のタイトルとなるベストナインを獲得しました。
その後、1999年には、40本塁打、101打点を記録し、初の本塁打王と打点王のタイトルを獲得しました。
すでに近鉄の顔、となったタフィローズはその後も安定した成績を残し、迎えた2001年。
タフィローズ自身にとっても、また日本プロ野球界にとっても歴史的な一年となりました。
まず、9月5日の対西武ライオンズ戦で、パ・リーグの外国人としては史上初となる50号本塁打を達成。(セ・リーグでは1985年に阪神に在籍していたランディー・バースが達成。)
そして9月9日の対福岡ダイエーホークス戦で、パ・リーグ史上最多となる53号本塁打を放ちました。(それまでの記録は1985に当時ロッテの落合博満が放った52本。)
極めつけが、9月24日の対西武ライオンズ戦。
54号まで放ったタフィローズに対しては、当時の日本記録であった、王貞治が持つ55号本塁打に並ばせまいと、徹底した勝負回避が行われていましたが、
当時の西武ライオンズのエースである松坂大輔はタフィローズに対し、真っ向勝負。
結果、タフィローズが本塁打を放ち、当時の日本記録のタイ記録となる55号本塁打を達成しました。
その後も執拗な勝負回避があった影響で、日本新記録とはなりませんでした(後に日本記録はヤクルトのバレンティンに塗り替えられる)が、近鉄はリーグ優勝を達成。
リーグ優勝に貢献したタフィローズはパ・リーグのMVPに初選出されました。
惜しくも日本一を逃しましたが、晩年の近鉄球団を華々しく飾る猛牛打線の核として、タフィローズはその後も活躍を続けます。
2002年には打点王、2003年には再び50本塁打超えを果たし本塁打王を獲得。
しかし、契約更改では球団と折り合いがつかず、交渉決裂。
結果、大阪近鉄バファローズを退団することとなりました。
近鉄退団後、タフィローズはセ・リーグの盟主、読売ジャイアンツに移籍を果たしました。
読売ジャイアンツでは、近鉄時代にはあまり守っていなかった中堅手としての出場がメインとなるものの、打撃はチームが変わっても不調に陥ることなく、好調を維持。
結果、移籍1年目の2004年には落合博満氏以来となる両リーグでの本塁打王を獲得しました。
なおこの年にFA権を取得し、翌2005年から日本人枠としての扱いとなりました。
2005年頃から、タフィローズに対しては、巨人という紳士的な球団には相応しくないような噂が多く流れることとなります。
2005年シーズン初め。4月26日のヤクルト戦で、守備機会中に打球を追わなかったことを「怠慢プレー」と激昂したコーチに掴みかかり、激しい口論へと発展しました。
その後もタフィローズの怒りが収まることはなく「ジャイアンツ下手くそ。ジャイアンツ嫌い。」と日本語でまくしたてたことが報道されました。
このタフィローズの暴言や一連の騒動については、球団から罰金を徴収されるということで、収束したと思われましたが、8月に右肩を故障。
9月に手術を受け、規定打席に達しなかったことなどから、巨人から戦力外通告を受け退団することとなりました。
パ・リーグ、そして近鉄を支えた「偉大なる助っ人」は、球界の盟主・巨人では思うような活躍が残せず、実働約1年半で対談するという結果になりました。
巨人退団後の去就に注目が集まりましたが、日本球界からのオファーはなく、タフィローズは母国・アメリカでプレーすることを選択。
地元・シンシナティ・レッズとマイナー契約を結びました。
しかし、オープン戦で結果を残せなかったタフィローズに対し、球団は降格を通達。
3月21日には現役引退を表明するほどとなりましたが、シーズン終了後、オリックス球団に売り込み。
「日本で野球がやりたい。」との思いを伝え、オリックス・バファローズの入団テストを受けることになりました。
2007年の春季キャンプに現れたタフィローズは、巨人在籍時よりも体型が大きくなっており、かなり重量化していました。
ブランクもあることから、タフィローズに対しては不安視する声も多く挙がったが、タフィローズは見事に調整し、入団テストに合格。
2007年5月には、巨人から本塁打を放ち「全球団からの本塁打」を達成。
この年には、通算1000打点や、当時の外国人最多出場記録の更新、1500安打達成、400本塁打達成など、記録づくめの1年となりました。
惜しくも本塁打王を逃すも、長打率、出塁率、四球、三振数でリーグ1位の記録を樹立し、ブランクを感じさせない、復活の1年として活躍しました。
翌2008年には、当時の新記録であった、外国人通算最多安打を放ち(その後、横浜DeNAでアレックス・ラミレスが2000本安打を達成)、結果、打点王を獲得しました。
2009年は怪我にも多く悩まされるようになり、自身のシーズン最少出場となりました。
翌年の契約更改は再び難航し、結果、オリックス・バファローズを退団。そのまま現役引退することとなりました。
現役引退後は、再び母国・アメリカに帰国し、父親と暮らしていました。
そんな現役引退をしたタフィローズに関して、衝撃的なニュースが飛び込んできたのが、2015年のことでした。
2015年5月25日に、近鉄時代のチームメイトである吉岡雄二が監督を務める独立リーグ・富山サンダーバーズへの電撃入団が決定。
コーチ兼選手として、現役復帰を果たすこととなりました。
独立リーグでは41試合に出場し、打率.315、4本塁打を放ちました。
しかし、ふくらはぎを怪我した影響により、再び帰国。
球団はチームへの復帰を望んでいましたが、タフィローズは富山サンダーバーズへ戻ることなく、退団。
結果、再び現役を引退することになりました。
その後、日本球界での殿堂入りが噂されるようになりましたが、得票数が少なく、落選が続いています。
アメリカの現地メディアはこれを人種的な差別が起きている、とし、不可解であると報道しています。
タフィローズ現在は?今は何をしている?
引用元:なんJスタジアム
日本球界の外国人選手の歴史に大きく名を刻み、日本球界に対しても歴史的記録を残したタフィローズ氏。
今でも彼のプレーを懐かしむファンが多くいますが、そんなタフィローズ氏は今、何をしているのでしょうか。
富山サンダーバーズを退団した後の情報はあまり出回っていないようですが、母国・アメリカへ帰国していることは間違いなさそうです。
オリックス・バファローズを退団した後には、父親と二人暮らしをしながら、息子のバスケットボールチームのコーチをしていた、ということですから、現在もそのような生活を行っているのかもしれません。
タフィローズのメジャーでの成績は?
引用元:Full-Count
日本での輝かしい成績を考えると、メジャーでもそれなりに成績を残していると考えるのが普通です。
しかし、タフィローズは、前述の経歴でも紹介したように、アメリカでの成績は、それほど目立った活躍ではありませんでした。
シーズン開幕戦で3打席連続本塁打を放つものの、なんとメジャーでは通算6年間で13本塁打しか放っていませんでした。
日本ではホームランアーチストとして認識しているファンがほとんどであると思いますが、アメリカ時代は、俊足巧打の選手として起用されていました。
従って、ホームランが期待される選手ではなかったため、メジャーでの打撃成績はあまり評価されるものではありませんでした。
むしろ、日本での活躍ぶり、そして豹変ぶりにはアメリカのメディアも驚愕していたようで、今でもタフィローズについて語られることも多くあるようです。
タフィローズは日本語、そして関西弁を話す?
日本に長くいる外国人選手も、次第に日本語を習得する選手と、一切日本語を話そうとしない選手に分かれます。
タフィローズは、日本語を多く話す選手として当時から注目されており、大阪に在籍していた期間が長かったことから、関西弁を多く話している姿もよく報道されていました。
晩年は、通訳がいなくても普通に会話できるほどに日本語を習得しており、自身の登録名も「狼主(ローズ)」にしたい、と言ったほどであったそうです。
タフィローズの嫁,奥さん,結婚相手は?
引用元:RocketNews24
タフィローズには息子がいることはこれまでにご紹介しましたが、結婚相手はどのような人なのでしょうか。
実は、タフィローズの奥さんや結婚相手については、あまり公にされていないのが事実です。
現役時代も奥さんを連れて歩いている様子などもあまりなかったようですし、日本へ来日させるようなこともなかったようです。
しかし、タフィローズには息子さんがいるようなので、結婚していなくとも、お子さんはいる、という状況なのかもしれません。
オリックス・バファローズ退団後も、父親と住んでいたそうなので、現在は奥さんがいない可能性が高そうです。
2014年には、NBAの試合中に映し出された姿があり、そこには女性と一緒に観戦しているタフィローズ氏の姿が映し出されました。
もしかすると、この女性が現在のタフィローズ氏の奥さんである可能性もありますね。
現在は音信不通となっているようなので、もしかすると再婚などしているかもしれませんね。
タフィローズの子供・息子・家族は?
引用元:週刊ベースボールONLINE
タフィローズ氏の家族についても謎が多いままとなっています。
オリックス・バファローズ退団後の情報はあったものの、現在は日本と音信不通になっているため、何をしているか、どのような家族になっているか不明のままです。
是非、日本のプロ野球に戻って、またタフィローズらしい、明るくかっこいい姿を見せてほしいですね。