ゴールデンルーキー。
キャンプ時から「果たしてどれだけ活躍するんだろう」とファンが胸を踊らせ、早々に一軍での活躍を期待しています。
その期待を一心に背負うルーキー本人にかなりのプレッシャーがかかるのは当然なのですが、
その選手の育成を任されるチーム、コーチにもかなりのプレッシャーがかかるものです。
「球界の至宝」などと言われながらも活躍できない選手は、その選手のみならず、チームにもその責任を問うファンも多くいます。
一方でそんなプレッシャーを感じながらも、ルーキー達を大成させたコーチは「名伯楽」と称され、数多くの球団からのオファーが絶ちません。
今回は近年、球界の大投手を育てあげ、今もなお「球界の至宝」を育成しているコーチを紹介します。
そのコーチとは、現在千葉ロッテマリーンズで1軍投手コーチを担当している吉井理人コーチです。
現在メジャーリーグで活躍しているダルビッシュ有投手や、大谷翔平投手を日本ハム時代に育成しました。
吉井理人自身もメジャーリーグで活躍した経験を持ち、今後メジャーリーグへの移籍の可能性もある、ドラフト1位ルーキーの佐々木朗希投手の育成を現在は行っています。
今回はそんな大投手を育て上げ、今も「球界の至宝」を預かり育成を行っている吉井理人投手について紹介していきます。
吉井理人氏のプロフィール・経歴・成績・出身地について
引用:d menuニュース
吉井理人氏は、1965年4月20日生まれの54歳(2020年2月現在)。
身長・体重は、身長188cm、体重95kgと公表されています。現役の時はかなり大柄で迫力のある投手でした。
和歌山県出身で、小学校から高校まで地元和歌山県で過ごしました。
高校は地元の県立高校・箕島高校に進学しました。高校の先輩には、西武ライオンズで活躍していた東尾修がいました。
高校2年生のときにチームは春のセンバツ大会で甲子園に出場し、吉井理人氏は控え投手としてベンチ入りしました。
準々決勝でリリーフで甲子園に初出場しましたが、チームは惜しくも敗れました。
高校3年生の時には、エースとして活躍し、夏の甲子園大会に出場しましたが、3回戦で敗退し、甲子園大会での優勝は果たせませんでした。
しかし、県屈指の好投手であったことがプロのスカウトの目に留まり、ドラフトでの注目選手となりました。
そして、1983年のドラフト会議で、近鉄バファローズから2位で指名を受け、入団をしました。
高卒ルーキーということもあり、プロ1年目は1軍に上がることなく、2軍でじっくり育成されました。
そしてプロ2年目に1軍で初登板を果たすものの、その後は1軍と2軍をいったり来たりするシーズンを過ごしました。
1987年に1軍でのプロ初勝利を挙げ、徐々に頭角を現すと、1988年には抑え投手として活躍。10勝と24セーブを挙げ、最優秀救援投手のタイトルを獲得しました。
その後も抑え投手として活躍し、1989年にはチームは優勝を果たし、日本シリーズに出場しました。
この年の日本シリーズでは、7戦中5戦に登板し、好リリーフを見せる活躍を残すものの、やや慢心もあってか、シリーズ終盤には打ち込まれる場面も多く、悔しい結果となりました。
しかし、その時の吉井理人の談話では他人事のように話す姿に注目が集まりました。
1991年からはやや不振となり、抑え投手の座は台頭してきた赤堀元之に譲る形となりました。
ポジションを探る吉井理人氏は、先発投手へ転向することとなりました。
この頃から首脳陣との確執が報じられていた吉井理人氏は、1995年に、ヤクルトスワローズにトレードで移籍することとなりました。
ヤクルトでは、近鉄晩年で担当していた先発投手を任され、二桁勝利を挙げ、規定投球回数にも到達しました。
結果チームもリーグ優勝を果たし、勢いそのままに日本一に貢献しました。
ちなみにこの年には雷雨の中投球した試合で、大荒れの内容となったのですが、降板後には「雷が怖い」と語っていたそうです。
1997年には、自己最高となる13勝を挙げ、オフにはFA権を行使し、ヤクルトを離れる決断をしました。
FA宣言後には、代理人に敏腕代理人の団野村氏を付け、国内移籍ではなく、メジャー移籍を選択しました。
結果、ニューヨーク・メッツからのオファーを受け、日本プロ野球初となるFA権の行使でのメジャーリーグ移籍を果たしました。
メジャー初先発の試合では7回3安打無失点と好投し、見事メジャー初勝利を挙げました。
その後も好投を続け、シーズンは6勝8敗と負け越すものの、1年間ローテーションを守ったことが評価され、ニューヨーク・メッツと2年契約で再契約しました。
翌年の1998年には右膝に不安を抱え、打ち込まれるシーンが多く目立ちました。しかし12勝を挙げ、見事メジャーリーグでの二桁勝利を果たしました。
ポストシーズンでは、メジャーリーグで当時のエース級ピッチャーである、ランディー・ジョンソンやグレッグ・マダックスなどと投げ合いました。
2000年にはトレードでコロラド・ロッキーズに移籍し、打席に立った吉井理人氏はホームランを放ち、まだメジャーリーグでの野手がいない中で、日本人としては史上2人目となるホームランとなりました。
肝心のピッチングについては、不調が目立ち、シーズンでは6勝15敗と大きく負け越すという結果となりました。
加えて、シーズン終盤には右腕の手術を行い、この年限りでコロラド・ロッキーズから解雇されました。
2001年にはモントリオール・エクスポズと契約し、先発とリリーフを兼務し、登板機会を増やしました。結果、この年には日米通算100勝を挙げました。
翌年は先発として起用されるものの、9月には左肩を負傷し、手術を受けました。
この年に事実上の自由契約を宣告され、移籍先を探すこととなりました。
結果、メジャーリーグでの契約を諦め、オリックス・ブルーウェーブに移籍。日本球界に復帰することとなりました。
日本球界復帰後は開幕投手にも選ばれるなど、大きな期待を寄せられましたが、故障に悩まされ、24試合に登板し、2勝止まりに終わる結果となりました。
翌年の2004年も怪我の影響で、わずか3試合の登板となった吉井理人氏は戦力外通告を受けました。
しかし、翌年に近鉄とオリックスが合併した「オリックス・バファローズ」の監督に仰木彬氏が就任すると、仰木氏の進言により、オリックスのテストを受け、再入団を果たしました。
これに奮起した吉井理人氏は、2005年に先発として復帰すると、6連勝を挙げ、復活を印象づける活躍を残しました。
2006年も先発投手として活躍し、シーズン登板は19試合であったものの、7勝を挙げました。
2007年は不調が続き、先発として結果が残せない吉井理人氏に対して、リリーフでの起用を行いましたが、それを不服とした吉井理人氏は先発投手としての起用を求め、他球団への移籍を希望しました。
そして2007年のシーズン途中に千葉ロッテマリーンズへトレードで移籍しました。
移籍後には希望通り先発で起用されるものの、全くと言っていいほど結果を残すことができず、結果、シーズン終了後には戦力外通告を受けることとなりました。
千葉ロッテマリーンズからの戦力外通告後も現役続行を希望していましたが、結果周囲への迷惑なども考慮し、現役引退を表明しました。
その後、日本ハムファイターズからのコーチ就任要請を受け、投手コーチとして入閣。
このコーチ就任については、近鉄時代にバッテリーを組んでいた梨田昌孝氏が日本ハムファイターズの監督を務めており、吉井理人氏に投手コーチとしての素質があると評価してオファーを出したそうです。
日本ハムファイターズでは、2009年まで1軍の投手コーチ、2010年に2軍の投手コーチ、そして2011年から2012年には再び1軍の投手コーチを務めました。
2012年には、日本ハムファイターズの監督である栗山英樹監督との確執があったとされ、この年限りで日本ハムファイターズを退団することとなりました。
2013年から2014年にかけては、野球解説者として、現役引退後初めて現場を離れることとなりました。
2014年には筑波大学の大学院に入学し、野球コーチング論研究室で、野球指導に関する研究を行いました。
しかし、この研究中に、福岡ソフトバンクホークスの監督に就任した工藤公康監督から1軍投手コーチへの就任要請を受け、入閣することになりました。
2015年は前年からの筑波大学での研究を行いながら、福岡ソフトバンクホークスの1軍ブルペンコーチとして手腕を揮いました。
球団はこの年のシーズン終了後に、吉井理人氏に育成を任せたい方針により、3軍のコーチへの異動を打診しましたが、大学院の論文提出を理由に、福岡ソフトバンクホークスを退団しました。
退団を知った北海道日本ハムファイターズは、吉井理人氏に1軍投手コーチとしての復帰を要請。大学院での研究を続けようとしていた吉井理人氏に対して、熱心にオファーし、吉井理人氏も快諾。
北海道日本ハムファイターズのコーチとして復帰することとなりました。
結果、2018年まで投手コーチとして手腕を揮っていた吉井理人氏は、この年限りで退団。
退団後すぐに千葉ロッテマリーンズからのオファーがあり、1軍投手コーチとして復帰することとなりました。
この千葉ロッテマリーンズへの復帰は、現役引退後、実に12年ぶりの復帰となりました。
復帰後は2020年現在まで、千葉ロッテマリーンズの1軍投手コーチとして活躍しています。
吉井理人氏のコーチング、コーチ能力としての評価は?
引用:iZa
現役引退後、北海道日本ハムファイターズ、福岡ソフトバンクホークス、千葉ロッテマリーンズとパ・リーグの3球団で1軍投手コーチを務めている吉井理人氏。
コーチ退団後、すぐに他球団からオファーがくるほど、引く手あまたな吉井理人氏ですが、そのコーチングやコーチ能力はどのように評価されているのでしょうか。
吉井理人氏は、プロフィールでも紹介したように、筑波大学でコーチングの研究を行い、博士号も取得しました。
まさに「学」の部分でもコーチ能力に長けていると評価されていますが、最も評価されているのは、そのコーチとしての実績そのものでしょう。
北海道日本ハムファイターズでは、やや伸び悩んでいたダルビッシュ有投手の育成に見事成功。
北海道日本ハムファイターズの投手王国を築き上げたのも、この吉井理人氏の手腕と評価されています。
その後も大谷翔平投手の育成にも成功し、高卒投手の育成に関する評価がものすごく高いことが評価されているようです。
現在コーチとして就任している千葉ロッテマリーンズでも、2019年シーズンに活躍した種市篤暉投手を指導したことが評価されていることに加え、
2020年のルーキーである佐々木朗希投手の育成プランに、早くも多くの高評価が集まっています。
吉井理人氏は自身のコーチングに関して、そもそも「コーチには絶対なりたくなかった」と振り返りながら、選手の嫌がる指導は絶対にしない、ということをモットーに指導しているようです。
これは自身の現役時代を回願した結果とも言え、まさにその頃を「反面教師」のようにして、今のコーチングスタイルとしているようです。
加えて、吉井理人氏は、選手を見ることを徹底して心がけているとのこと。
そして「積極的に指導をする」ということを行わないようにして「聞かれたら答える」というスタンスを徹底しているそうです。
これは「相手と自分の経験や常識、感覚が全く違う」と考えているからだそうで、この認識を持って接することが出来るかどうかが非常に重要であると考えているそうです。
吉井理人氏は不用意なアドバイスなども避け、選手とのコミュニケーションについては、かなり慎重に行っているとのこと。
2020年にコーチとして指導することになった佐々木朗希投手に対しても、関西弁恐怖症との噂を聞くと、その言葉遣いから気にしてコミュニケーションを図るように心がけていたそうです。
結果、佐々木朗希投手は関西弁にそこまで恐怖を抱いていないということがわかった今は、そこまで気を遣うほどではなくなったそうですが、まずは選手との距離感やコミュニケーションの取り方について気にするあたりというのは、まさしく「指導しすぎない」「指導しない」というスタンスから生まれて来ているのでしょうね。
吉井理人氏は「選手本人の感覚を重要」として、焦らずじっくりと指導する方針のようです。
佐々木朗希投手に対しても、すぐに実践の場を設けるのではなく、まずは高校時代の良い感覚を掴んでから、実践の場を設ける方針とのことです。
すぐに実践の場を設けるのは、コーチのすることであり、それが本人の感覚とズレがあるようであれば、選手の良さを潰してしまうことになるかもしれません。
そういった選手の感覚を狂わすような指導ではなく、あくまでも本人の感覚や感性を大事にして、選手からの言葉があれば、話すというコミュニケーションスタイルを取り、伸ばしていくのが、吉井理人氏の指導方法なのかもしれません。
吉井理人氏は結婚している?独身?嫁は?
引用:Amazon
指導法やこれまでの活躍については、よく知られている吉井理人氏ですが、意外と知られていないのが、プライベートな部分。
吉井理人氏は結婚をしているのでしょうか。
実は、このことについては、公には発表されておらず、あくまで噂が流れている程度なようです。
関西で活躍している森脇健児氏は、家族で歩いている吉井理人氏を見かけた、と話していることから、独身ではなく結婚している可能性が高いと見られています。
加えて、現役引退時には「家族にこれ以上迷惑をかけられない」として引退していることから、結婚はしていると見られています。
従いまして、奥さんに関する情報もないような状況です。
吉井理人氏の家族、子供は?弟がいる?
引用:HUFFPOST
謎に包まれている吉井理人氏の家族事情ですが、先述したように森脇健児氏が目撃した情報によると、子供を連れて歩いている姿を目撃したとの情報があるため、お子さんはいらっしゃるようです。
しかし、息子さんなのか、娘さんなのか、その真相もわからない状況です。
プロ野球選手、そしてコーチでメジャーリーグでも活躍した方の家族事情がここまで知られていないのが非常に珍しいですが、真相は藪の中です。