広島東洋カープ

衣笠祥雄はハーフ?父親や生い立ち,若い頃やお墓について調査!!

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日本のプロ野球では、長い歴史の中で数々の大記録が達成されてきました。

アスリートとしての心身的技術が進歩する現代でも、未だ破られることのない記録はたくさんあります。
その多くは、打者であれば、打率や本塁打、安打数、打点、盗塁などに代表されます。

しかし、プロ野球を語る上で欠かせない記録があります。

それが連続試合出場記録です。

年間の1/3は試合に出続け、半年近く野球をし続けている選手にとって、試合に出続けるという記録は、
すなわち長きに渡り、活躍をし続けられているという非常に名誉のある記録にもなっています。

プロ野球界では、そんな長きに渡る連続試合出場記録を持つ選手を「鉄人」と呼びます。

今回は、そんな「鉄人」の元祖とも言われ、広島東洋カープの黄金時代「赤ヘル打線」の一角を担った、衣笠祥雄氏についてハーフなのか?父親や生い立ち,若い頃やお墓に紹介していきたいと思います。

衣笠祥雄氏の経歴・成績・出身地・プロフィールについて

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引用:週刊ベースボールONLINE

衣笠祥雄氏は、1947年1月18日生まれで、2018年4月23日に71歳という若さで惜しくも亡くなられました。
身長175cm、体重73kg。

京都府京都市出身で、小学校中学校と地元京都で過ごしてきました。
京都市立洛東中学校の入学時には、柔道部に入りたかったものの、当時の中学校には柔道部が存在していなかったため、仕方なく野球部に入部しました。
衣笠祥雄氏の野球人としての人生はこうして「仕方なく」始まったものだったのです。

中学卒業後も野球を続ける決心をし、高校は地元・京都の強豪高校である平安高等学校に入学。
高校ではキャッチャーを務め、高校3年生の時には春夏通じて甲子園大会に出場しました。

春夏ともに準々決勝まで進出したものの敗退を喫し、悲願の甲子園大会の優勝の夢は叶いませんでした。

この甲子園での活躍がプロのスカウトの目にも留まり、広島カープに入団を果たしました。
現在では当たり前となっているドラフト会議は、この衣笠祥雄氏が球団をする翌年から導入されたものであり、指名制ではない形で入団をしました。

ルーキーイヤーからキャッチャーとして1軍の試合に出場し、6試合にスタメン出場を果たしました。
しかし、当時の監督の方針で、衣笠祥雄氏はファーストへ転向を言い渡されました。

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衣笠祥雄氏はここからファーストへの主戦場を移し、試合の出場を続けましたが、プロ3年目のシーズン終盤までは1軍に定着するほどまでは至っていませんでした。
プロ入り4年目からは開幕から5番・ファーストでスタメン出場を果たし、1軍に定着。この年に初の規定打席に到達し、21本塁打を放ち、しっかりレギュラーの座を確保した形となりましhた。

その後も打率は3割近い数字、本塁打も20本以上を超える安定した成績を残し、チームのみならず日本球界を代表するバッターへと成長しました。
衣笠祥雄氏の代名詞でもある「連続試合出場記録」は、この頃から続きました。

この頃の衣笠祥雄氏の背番号が「28」であったこと、そして負傷しても試合に出場を続けたことから、衣笠祥雄氏は「鉄人」と呼ばれるようになりました。

プロ11年目の1975年には、サードのポジションへ再コンバートをされ、長嶋茂雄氏が現役当時に背負っていた背番号である「3」に変更。
コンバート後も安定した成績を残し、この年のチームのリーグ優勝に大きく貢献し、衣笠祥雄氏自身も初のベストナインに輝きました。

安定した打撃成績ばかりが注目されがちな衣笠祥雄氏ですが、足も速く、プロ12年目の1976年には盗塁王も獲得しました。

その後も不調や死球による負傷の影響で連続スタメン試合出場記録は途切れながらも、試合には出場を続けどんどん連続試合出場記録を伸ばしていきました。
その途中には、左肩の肩甲骨を骨折するという大怪我を負いながらも、不屈の精神で試合には出場を続けました。

そして1980年に当時の連続試合出場記録の更新を達成し「日本球界で最も連続して試合に出場した選手」として記録を残しました。
その後もその記録は途絶えること無く続き、安定した記録を残し続けました。
1983年には、通算2,000本安打も達成し、見事日本プロ野球名球会の一員にもなりました。

そして驚くべきは1984年、衣笠祥雄氏が37歳となったシーズンで残した記録です。
このシーズンでは、打率.329で自己最高、31本塁打、102打点というキャリアハイとも言える成績を残しました。

37歳というと一般的には「晩年」と呼ばれる年齢に差し掛かり、スタメン出場することすら難しくなってくる年齢です。
この歳に衣笠祥雄氏は、全試合出場はおろか、キャリアハイといえる成績を残したのです。
まさに「鉄人」らしい記録とも言えるかもしれません。

しかし、次第に年齢による衰えの壁が衣笠祥雄氏の前に立ちはだかるようになり、1986年から徐々に成績は下降線をたどっていきました。
それでも、連続試合出場記録は絶やすこと無く続け、不調ながらもシーズン全試合出場を続けました。

そして、1987年、世界記録となっていた2130試合連続出場記録を見事更新し、世界に誇る「鉄人」として大記録を達成しました。
この記録をたたえ、プロ野球選手では当時王貞治氏に次いで2人目となる国民栄誉賞を受賞しました。

ただ、晩年も晩年、かなりの衰えを感じていた衣笠祥雄氏はこのシーズンをもっての引退を決意し、結果この年も全試合に出場しながら、ユニフォームを脱ぎ、引退することとなりました。

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引退後は約30年もの間、TBSの野球解説者を務め、的確かつ選手をほめ優しい解説が視聴者に非常に好評でした。
歳を重ねていくにつれ、選手の把握や知識も乏しくなっていく人が多い中、衣笠祥雄氏は「どのチームの選手であれ、よく選手を知る解説者」としてプロ野球ファン全体から愛されていました。

1996年には野球殿堂入りも果たし、後世にしっかりと名を残しながら、解説も続けていました。

しかし、2018年、上行結腸がん(大腸がん)のため、71歳という若さでお亡くなりになりました。
亡くなる直前まで解説の仕事をしており、視聴者からは「かすれ声が気になる」「体調が悪い?」と不安される声も多かったのですが、
最後まで仕事、そして野球を愛する姿は、プロ野球ファンの記憶にしっかりと刻まれました。

衣笠祥雄はハーフ?クオーター?

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引用:時事ドットコム

衣笠祥雄氏といえば、これまでご紹介の通り、その頑丈な身体。まさに「鉄人」であったわけですが、同時に「日本人離れしている」と形容されることも多々あります。

この「日本人離れ」というワードですが、果たして衣笠祥雄氏は外国人の血が入っているのでしょうか。

調べたところ、衣笠祥雄氏はアメリカ人とのハーフであることが分かりました。
プロフィールでご紹介の通り、身長は175cmで体重も73kgであったことから、そこまで大きい身体ではなく、どちらかというと「日本人らしい」身体であるという印象です。

しかし、これだけの連続試合出場を果たした、ということは骨格や身体の丈夫さというのは、このアメリカ人とのハーフゆえなのかもしれません。

ちなみに、このハーフが関係しているか定かではありませんが、衣笠祥雄氏は生前かなりの偏食家であったそうです。
なんとほとんど「肉」しか口にせず、魚や野菜はあまり口にしなかったそうです。

このあたりもアメリカ人らしい、という見方もできるという印象ですね。
もしかすると、幼少期の食生活がアメリカナイズドされていた結果なのかもしれません。

また、アメリカ人とのハーフということになると、気になるのはその英語力です。
現役時代は、米軍基地がある岩国によく訪れていたそうで、基地の周辺にある居酒屋やバーでアメリカ人の兵隊とよく飲んでいたそうです。

アメリカ人の兵隊はほとんど日本語が話せませんから、衣笠祥雄氏は英語も使いながらアメリカ人と交流を深めていたと思われます。
自分自身にアメリカの血が流れていることから、このような交流を深めていたのかもしれませんね。

衣笠祥雄氏の父親,母親はどんな人?

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引用:himenohitomiのブログ

衣笠祥雄氏はアメリカ人とのハーフということが分かったわけですが、父親と母親のどちらがアメリカ人だったのでしょうか。

こちらも調べたところによると父親がアメリカ人であったことが分かりました。
父親はアフリカ系アメリカ人であったそうですから、この「アフリカ系」という血が衣笠祥雄氏の野性味溢れた容姿に受け継がれたのだと思います。

父親はアメリカの進駐軍の兵士として日本に駐留しており、妻(衣笠祥雄氏の母親)と出会ったそうです。
戦後間もない時代ですから、アメリカの進駐軍がまだ日本に多く駐留しており、このような出会いとなったそうです。

現代では、米軍の方と結婚するということはそれほど多くはないでしょうから、まさに時代が生んだ球界のスターとなったわけです。

母親については、詳しい情報がありませんでしたが、ごくごく一般的な家庭の日本人であったそうです。

衣笠祥雄氏の生い立ちや若い頃について

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引用:スポーツ報知

アメリカの進駐軍兵士を父に持つ家庭で生まれた衣笠祥雄氏。しかし、幼少期から複雑な家庭環境で育てられたそうです。

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両親の結婚生活もそう長くは続かず、衣笠祥雄氏が幼少期のころに、両親が離婚。
衣笠祥雄氏は、母親のもとへ渡り、母親の祖父に育ててもらっていたそうです。

その後、母親が再婚し、新しい家族として生活をともにしたそうですが、なかなか貧しい生活を強いられていたそうです。
アメリカの進駐軍兵士との結婚ですから、想像に難しいほど、複雑であったのかもしれません。

衣笠祥雄氏は、この家庭を支えるべく、子供の頃から新聞配達のアルバイトをしていたそうです。

大人になって、岩国にいるアメリカ人兵士との交流を深めたのも、幼い頃に離れ離れになった父親を懐かしみ、また、自分自身のルーツを感じるべく、足繁く通っていたのかもしれません。

ハーフで生まれた子供の中には、こうした幼少期に両親が離婚し、自分自身がハーフであることを感じることなく過ごしてきた人も多くいます。
衣笠祥雄氏も、おそらくそうしたハンディキャップを感じながら、育ってきたのかもしれません。

衣笠祥雄氏の若かりし頃の写真からも、そのアメリカンな風貌を確認することができます。

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引用:Number Web

下から二番目にいるのが衣笠祥雄氏ですが、この風貌はどこかアメリカの俳優の雰囲気すら感じる出で立ちです。
アフリカ人系のハーフですから、白人アメリカ人のハーフ、という感じではありませんが、野性味溢れる出で立ちはやはり「日本人離れしている」風貌に見えますね。

衣笠祥雄氏のお墓はどこにある?

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引用:ひろたび

現役引退後も優しい解説者として非常に人気の高かった衣笠祥雄氏ですが、2018年4月に71歳という若さでこの世を去ることとなりました。
常に全力プレーで試合に出続け、広島東洋カープの黄金時代を担った一人でもあったことから、今でも多くのファンが名残惜しんでいます。

そんな衣笠祥雄氏のお墓ですが、どちらにあるのでしょうか。

残念ながら、お墓の場所は分かりませんでした。恐らく生まれ育った場所である京都府か、生前暮らしていた東京都にあるのではないでしょうか。

ちなみに、ファンが衣笠祥雄氏を偲ぶ場所として、旧広島市民球場跡地には「衣笠祥雄世界新記録記念碑」というものがあります。
当時の世界記録である連続試合出場記録を称えた記念碑なのですが、ここには亡くなられた時に多くの献花が手向けられ、今でも命日には多くの衣笠祥雄ファン、広島東洋カープファンが訪れているようです。

全力プレーでファンに愛され、引退した後も多くのファンに愛された鉄人。
球界の宝を失ってしばらくの月日が経ちますが、その勇姿はプロ野球界に永遠に語り継がれることでしょう。

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