「弱気は最大の敵」と気合を入れ、マウンドへ上がる男。その背中を見て震えた野球ファンは多いのではないでしょうか。未だに語り継がれる炎のストッパー津田恒美。
もう、その姿を見る事はできないけれど、野球ファンの心の中には打者に一歩も引かない、真っ向勝負の投球をする姿が焼き付いているのではないでしょうか。
32歳という若さでこの世を去った、広島カープの守護神津田恒美投手について書きたいと思います。
気になる夫人や息子もリサーチしましたので、ご覧ください。
津田恒美プロフィール ・経歴・成績
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1960年8月1日生まれ、山口県出身、南陽工業高校卒業
身長181㎝、体重79㎏、右投げ、右打ち
享年32歳
南陽工業高校では1年生からエースとして活躍。1978年にセンバツに出場し準々決勝進出、同年の甲子園大会に出場するも2回戦敗退。
卒業後は、協和発酵に入社し社会人野球の選手として活躍をする。1981年広島カープにドラフト1位で指名され入団する事となる。
1年目の活躍は期待を大きく上回る物で11勝6敗と球団初の新人王にも輝きました。
2年目の後半からは、中指の血行障害に悩まされ世界初の中指の靭帯を摘出する手術を受けた。
1986年に復帰し、抑え投手として広島カープのリーグ制覇に貢献しました。その後は肩痛などがあり成績が振るわず、思った活躍が見せられなかった津田投手。しかし不屈の精神で1989年に復活。
12勝5敗28セーブという成績を挙げ「炎のストッパー」と呼ばれるようになりました。
翌年には肩を故障、左膝の靭帯を損傷するなどし登板数が僅かに4となってしまい、更にはオフには体調不良が続いたそうです。
1991年4月14日は体調不良を押しながらも登板したが、大乱調でわずか9球で敗戦投手となりマウンドを降りました。
このマウンドが津田恒美投手が投げた最後の姿でした。
津田恒美の嫁である晃代夫人の再婚は?
https://www.daily.co.jp/baseball/carp/2016/09/11/0009476958.shtml
出逢った頃の津田投手の印象は最悪だったと言う晃代夫人。そんな2人が結婚したのが晃代夫人が24歳の時だそうです。
津田投手が亡くなった時、晃代夫人はまだ20代の後半であったでしょう。夫を亡くし、小さな息子を女手ひとつで育てるのは並大抵の事ではなかったでしょう。
実家のある熊本へ帰り、パートやエステサロンの経営などをして子育てをしていたそうです。
まだ若く、とても美人な晃代夫人ですので再婚の話などもあったのではないでしょうか。しかしながら、再婚はしていらっしゃらないようです。
現在は「スポーツコミュニケーションアドバイザー」として活躍なさっているそうです。40歳の時に専門学校へ通い、理学療法士の資格を取得し病院のリハビリテーション科に勤務していたそうです。
とても強くてバイタリティに溢れた素敵な女性だと思いました。そして津田投手への大きな愛を感じます。
私も子を持つ母として、見習いたい部分が多くあると思いました。
津田恒美の息子の現在は?
https://bamp.is/interview/tanaka08.html
幼少の頃から野球をしていたという大毅さん。高校は九州学院高校。大学は九州国際大学へ進学。その後、古場竹織氏が監督を務めていた東京国際大学へ編入しますが、度重なるケガのため野球を断念する事となりました。
大毅さんの野球人生は父親と比べられる事が多く、父親から逃げたくなる事が多かったと言います。有名人の親を持つと、こういった悩みを持つ事も多いみたいですね。
そんな大毅さんは大学卒業後は一般企業に就職をしますが、逃げていた父親に向き合うべく、津田恒美投手の記念館を設立しようと一念発起し、資金集めの為に会社を辞め自転車で日本一周をしているそうです。
クラウドファンディングを利用し、資金作りもしています。父の偉業を伝えるために全国を回っているそうです。膨大な資金が必要となってくるとは思いますが1日も早く目標金額に届く事を期待しています。
津田恒美の死因である脳腫瘍
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津田恒美投手の死因は悪性脳腫瘍でした。手術をしても取れない場所に腫瘍があったと言います。現在でも悪性腫瘍の根治は不可能と言われています。
津田投手は、頭痛などの体調不良が起こる前から病気の前触れがあったそうです。足のダルさが続きマッサージなどをしてもらっていたと語っていました。
プロ野球選手ですので、練習などの疲れによって足のダルさがでていると思ってしまったと思います。また、練習の時にキャッチャーがセカンドに投げた球を避けきれなかった事があったそうです。それは病気の前触れで、この時すでに病魔は進行していたのではないでしょうか。
その後も津田投手の体調はどんどん悪くなり、頭痛がひどくてベンチで休んでいた事もあったそうです。
監督やコーチに体調不良を気づかれないように取り繕ったりしていた津田投手。最後の登板となった4月14日も登板直前までソファーで休んでいましたが気力を振り絞りマウンドへ上がりました。
元大洋ホエールズと近鉄に所属していた盛田幸妃投手も、現役時代に脳腫瘍が見つかり、手術、リハビリをし見事に現役復帰を果たしました。
盛田幸妃投手が復帰し投げる姿を見たときは、驚きと共に並々ならぬ努力をしてきたのだろうという思いで、心の底から応援したいという気持ちになった事を覚えています。
その後、盛田幸妃投手は野球解説者などを務め、元気な姿を見せているようでしたが脳腫瘍が再発し、骨に転移し骨腫瘍を発症。手術と転移を繰り返し2015年に亡くなられました。
病気からのカムバックでファンに大きな感動を与えてくれた盛田投手の事は、ファンも忘れないでしょう。
津田恒美と原辰徳の関係は?
https://carp.ho2.info/archives/2671/2014%E6%B4%A5%E7%94%B0%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88
ジャイアンツの監督を務める原辰徳監督の野球人生を変えた一球というのがあるそうです。
1986年9月24日の後楽園球場。バッターボックスには原辰徳。マウンドには津田恒美。津田投手が投げた7球目のストレート。そのストレートにフルスイングで挑んだ原辰徳。
その瞬間、原辰徳の左手有鈎骨が折れたと言うのです。その骨折から打撃スタイルの変更をしなくてはならなくなり、野球人生が大きく変わったそうです。
「あの骨折で原辰徳は死にました」と後に語っていただけあり、その時の衝撃は想像を絶する物だったのではないでしょうか。
スポンサーリンク投げた津田恒美投手は、入団した頃から対戦したい相手は原辰徳選手と語っていたほどで、原辰徳選手に対しては大変な思い入れがあったようです。
そんな2人には因縁のような物があったのでしょうか。
津田恒美投手の最後の登板となった1991年の4月14日。北別府投手に代わりマウンドに上がった津田恒美投手。
ピンチを招き、そのピンチでタイムリーヒットを放ったのが原辰徳選手でした。そして、そのタイムリーヒットにより津田恒美投手は降板。
津田恒美投手の野球人生最後の対決が、原辰徳選手だった事になります。
この時点では、お互いに最後の対決になるなんて思ってもいなかった事でしょう。
若くしてこの世を去った津田恒美さん。その意志は現在でもカープの若い投手たちに受け継がれています。マツダスタジアムのブルペンに設置してある津田プレートに一礼をしてからマウンドに上がる投手たち。
その投手たちが見ている言葉は
「直球勝負 笑顔と闘志を忘れないために」
記録よりも記憶に残る選手であった津田恒美投手。気迫あふれるピッチングをファンはずっと忘れません。
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