プロ野球で最も過酷とも言われる「クローザー」のポジション。
「守護神」とも言われ、最終回に登板しキレイに抑え、チームを勝利に結びつける重要な役割となっています。
そんなポジションを長年に渡り務めている投手がいます。
それが阪神タイガースの藤川球児投手。
クローザーは肉体的にも精神的にも疲れがたまるのはもちろん、剛速球や決め球となる変化球を持ち合わせていないと務まらないポジションですが、そんな過酷なポジションをベテランになった今でも務めています。
一度はメジャーに挑戦するも、活躍できずに帰国。
その後、日本の独立リーグを経て、再び「トラの守護神」として見事復活を遂げた藤川球児投手。
今回はそんな藤川球児投手について紹介していきたいと思います。
藤川球児投手(阪神タイガース)選手のプロフィール・出身地・経歴・成績について
引用:高知新聞
藤川球児投手は、1980年7月21日生まれの39歳(2020年5月現在)。
2020年7月には40歳を迎える大ベテラン投手です。
身長185cm、体重90kgと、プロ野球選手の中では、比較的大柄な体格をしています。
高知県高知市出身で、小学校中学校と地元高知で過ごしてきました。
少年時代は、地元の野球チーム「小高坂ホワイトウルフ」に所属していました。
所属当初はショートのポジションを守っていたようですが、その後投手へコンバートされました。
このコンバートが藤川球児投手の「投手生活」の始まりになっています。
中学卒業後、高校は地元高知の強豪・高知商業高等学校に進学しました。
高校に入学すると、2年生の時に夏の甲子園大会に出場。このときは2年生という下級学年であったこともあり、ライトのポジションをメインに、控え投手として出場していました。
この時、兄の藤川順一さんが捕手を務めていたこともあり、甲子園大会では兄弟バッテリーとして試合に出場しました。
甲子園大会では2回戦で敗退するものの、この年の活躍が全国にも広まり、2年生ながら高校の日本代表にも選出されました。
その後、3年生では県大会で敗退をし、甲子園大会の出場は2年生時の1回に留まりました。
しかし高校での活躍はプロのスカウトからも大きな注目を集めており、ドラフトでの上位候補にも挙がるほどとなっていました。
そして、1998年のドラフト会議にて阪神タイガースから1位指名を受け、入団を果たしました。
この年のドラフトは、同級生にあの大スター、松坂大輔がいた他、他にも上原浩治、新垣渚、小林雅英、東出輝裕、古木克明、里崎智也、岩瀬仁紀など、2000年代のプロ野球を支えた大スターが多く指名された年でもありました。
この年のドラフト1位で指名された藤川球児は後に、球界を代表する大投手となるわけですから、当時のスカウトも藤川球児の現在の姿にかなり喜んでいることと思います。
プロ1年目の1999年は、高卒ルーキーということもあり、まずはプロとして活躍するための身体づくりに専念した年となりました。二軍の試合でもわずか3試合の登板に留まりました。
プロ2年目の2000年、徐々に2軍での登板を重ね、この年のフレッシュオールスターに出場しました。その後、1軍に昇格し初登板を果たすものの、安定した成績を残すことができずにシーズンは終了しました。
しかし、高卒2年目でプロ初登板を果たすというのは、当時からの期待も大きく、大器の片鱗を見せていたと言ってもよいのかもしれません。
プロ3年目の2001年、さらなる飛躍が期待されましたが、2軍での調整が主となり、1軍での試合出場はありませんでした。
この頃には、同期入団の松坂大輔や上原浩治が球界を代表するエースにまでなっていたことから、藤川球児はこの2人と比較され「ハズレ」の烙印を押されるような話も出ていました。
プロ4年目の2002年、先発投手として起用されたこの年は、1軍の試合にも先発として登板。見事プロ入り初勝利を挙げましたが、その後は勝ち星を積み上げることができず、シーズンはこの1勝止まりという成績になりました。
プロ5年目の2003年、2軍では、ファーム日本選手権で胴上げ投手となるものの、1軍では17試合の登板でこの年も1勝止まりとなり、いいところを見せられずにいる年が続きました。
後ほどになり分かったことですが、実はこの年で戦力外通告を通告される可能性があったところまで見切りが付けられていたそうです。
まさに、首の皮一枚繋がった状況で、今日の藤川球児投手の活躍からすると、考えられないような崖っぷちに立たされていたことが分かります。
プロ6年目の2004年、肩の故障をきっかけに投球フォームを改造した藤川球児投手。そしてこの年に先発から中継ぎに転向したことで、1軍の中継ぎにも定着し、安定した成績を残すようになりました。
まさに「怪我の功名」というべきか、この怪我をきっかけに藤川球児投手の野球人生が大きく変わることとなります。
プロ7年目の2005年、前年の活躍から1軍の中継ぎとして定着すると、おもに8回を任されるセットアッパーとして活躍。
同じく左の中継ぎとして活躍していたジェフ・ウィリアムスや、抑えで活躍していた久保田智之とともに「JFK」というリリーフ陣の勝利の方程式を形成しました。
この年には、プロ野球記録となる17試合連続ホールドを達成し、オールスターにも中継ぎ投手部門1位の得票数を得て、出場を果たしました。
また、当時のシーズン最多登板記録となる80試合に登板し、53ホールドポイントを挙げ最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得しました。
まさにこの年から今日まで続く球界の中継ぎエース・藤川球児としての活躍が始まったわけです。
プロ8年目の2006年、ストッパーとして投げていた久保田智之が怪我で戦線を離脱した代わりに、ストッパーとして活躍。
ストッパーになっても、藤川球児投手の投球は変わらず、38試合連続無失点記録を樹立。
久保田智之の復帰後は、再びセットアッパーとして活躍し、2年連続で最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得しました。
プロ9年目の2007年、この年から中継ぎ内での配置転換があり、藤川球児投手はストッパーとして活躍。
安定した投球を続け、シーズン終了までストッパーとして投げ続け、日本記録タイとなる46セーブを挙げ、自身初となる最多セーブ投手のタイトルを獲得しました。
プロ10年目の2008年、この年は前半戦にものすごいスピードでセーブを挙げ、北京オリンピック野球日本代表にも選出されました。
帰国後は、さらに登板するシーンが増えながらも安定した投球を続け、この年に自身通算100セーブを達成しました。
プロ11年目の2009年、この年に開かれたWBCの日本代表にも選出されるものの、やや不安定な投球が続き、シーズン開幕後も徐々に調子を落としていきました。
それでもなんとか3年連続で20セーブを挙げる活躍を見せ、チームの勝利に貢献しました。
プロ12年目の2010年、この年も中継ぎと抑えとしてフル回転。しかし、絶好調とは言えない数字となり、藤川球児投手への酷使が問題視されるようになっていきました。
プロ13年目の2011年、前年の不調から抜け出した藤川球児投手は、ストッパーとして活躍。
自身4年ぶりとなる41セーブを挙げ、2度目の最多セーブ投手のタイトルを獲得しました。
プロ14年目の2012年、4月に自身通算200セーブを挙げ、ストッパーとしてシーズン終了まで投げ続けると、この年のオフに海外FA権を行使しメジャーリーグへの移籍を表明しました。
そしてプロ15年目の2013年、シカゴ・カブスと契約を結ぶとこの年にメジャー初登板を果たし、初セーブを挙げました。
その後、クローザーが怪我で離脱したことにより、藤川球児投手がクローザーとして起用されるようになりました。
しかし、この後藤川球児投手は右腕の怪我が頻繁に発生するようになり、度々戦線を離脱。
結果、球界としては大手術して有名な「トミージョン手術」を受けることとなり、この年のシーズン終了を迎えました。
翌年からはリハビリ生活を迎え、怪我の治療に専念。回復した姿を見せるものの、シカゴ・カブスとの契約が切られ、FA。実質の自由契約となってしまいました。
その後、テキサス・レンジャーズとの契約を結ぶものの、日本で見せた快投を見せることはできず、メジャーリーグでの挑戦は2015年限りで終了となりました。
メジャーリーグでの生活を終えた後、日本球界からのオファーを待っていた藤川球児投手。
古巣・阪神タイガースが獲得に乗り出すものの、怪我をした影響を懸念し、獲得には至りませんでした。
藤川球児投手は「地元の子供達に夢を与えたい」という思いから、地元・高知にある独立リーグ球団、高知ファイティングドッグスに入団を果たしました。
この高知ファイティングドッグスでは、無報酬でチームに所属し、登板を続けました。
結局このシーズン中に日本プロ野球との契約合意には至らず、シーズン終了まで高知ファイティングドッグスでプレーを続けました。
そして、この年(2015年)のオフに、阪神タイガースと東京ヤクルトスワローズが藤川球児投手の獲得に乗り出し、交渉がスタート。
東京ヤクルトスワローズとは契約面で合意には至らず、結果、古巣・阪神タイガースへの復帰が決まりました。
復帰初年度の2016年、当時の監督であった金本知憲監督の意向から、先発投手としての調整を命じられました。
開幕後も先発投手として試合に出場した藤川球児投手は、見事日本球界復帰後初勝利を挙げました。
しかし、慣れない先発投手として調整に苦労したか、その後は大量失点をするシーンなども目立ち、結果シーズン途中で中継ぎへ配置転換されることとなりました。
中継ぎ転向後はセットアッパーやストッパーとしてフル回転。結果、中継ぎとしては38試合に登板をし、チームに貢献をしました。
その後は、セットアッパーやストッパーを兼任するシーズンが綴っき、2019年8月には現役最多となる235Sを挙げました。
2019年シーズンは防御率1.77という驚異的な数字を残し、39歳という年齢を感じさせない圧巻のピッチングを披露しています。
藤川球児投手復活の理由は嫁にあり?
スポンサーリンク引用:高校野球ドットコム
プロ入り後はなかなか結果が出せず、一時は戦力外通告を受ける可能性まであった藤川球児投手。
その後、急成長を遂げ球界を代表するクローザーにまでになり、メジャーリーグへ挑戦。しかし、メジャーリーグでは怪我の影響で大きな挫折を味わった藤川球児投手に待ち受けていたのは、苦難の道でした。
独立リーグでのプレーの後、2019年には見事中継ぎエースとして、かつての姿を取り戻した藤川球児投手の活躍の裏には嫁の支えが合ったからだと言われています。
2015年、独立リーグでプレーしていた頃には「このまま野球をやめるかもしれない」と嫁に弱音を漏らしていたそうですが、それでも献身的に藤川球児投手を支えた奥さん。
その支えがあり、藤川球児投手は見事不死鳥のごとく復活を果たしました。奥さんは藤川球児投手を一番そばで見続けてきた人ですから、藤川球児投手のことをよく知り、その上で的確な言葉を掛け続けてきたのだと思います。
藤川球児投手も一時は弱音を漏らしていたものの、やはり家族という存在が合ったからこそ、ここまで復活を果たすことができたのかもしれません。
まさに家族の愛が生んだ、藤川球児投手の復活である、ということが言えそうです。スポンサーリンク藤川球児投手の嫁・結婚相手はどんな人?
引用:時事ドットコム
そんな藤川球児投手を支え続けた嫁(奥さん)はどんな人なのでしょうか。
藤川球児投手の奥さんは、高知商業高等学校時代の同級生で、元看護師の方だそうです。
看護師であったことから、常に人に寄り添うスペシャリストとして、藤川球児投手が辛いときも支え続けられたのかもしれません。藤川球児投手とは高校時代から交際を続けていたそうで、2000年、藤川球児投手がプロ2年目の20歳の時に結婚をしました。
そこから、藤川球児投手のプロ野球生活をともに歩み、励まし続けきました。メジャーリーグ挑戦のときも、独立リーグへの入団も奥さんの支えがあって決断できたようですから、まさに藤川球児投手のプロ野球人生は奥さん無しでは成り立たなかったといっても過言ではないのかもしれません。
藤川球児投手の子供、家族について
引用:ホークスソウル
藤川球児投手を支え続けたのは、奥さんだけではなく、子供の存在も大きかったようです。
藤川球児投手には3人のお子さんがいらっしゃるそうで、男の子1人、女の子が2人だそうです。お子さんのお名前は、長男が温大(はると)くん、女の子の1人は絢英(あゆな)というそうです。
長男は成人しているほど大きいそうで、一番下の子は小学生ほどだそうです。藤川球児投手本人のブログでは、2016年、日本球界に復帰した時にまだアメリカに残っていた家族が帰国する予定であることが綴られ、
子供たちが受験勉強に勤しんでいたり、一番下の子が日本の小学校に編入することへの不安が書かれています。このように子供を心配する姿を見る限り、藤川球児投手も家族に支えられ、そして家族思いな方であることが分かります。
一部で藤川球児投手が離婚したのではないか、ということも噂されていたようですが、そんなことはまったくなく、幸せな家庭を築いているようです。
藤川球児投手の全盛期は「火の玉ストレート」!カブレラとの名シーン
引用:baseballlog
藤川球児投手の全盛期の投球、そして勢いと伸びのあるストレートは、他の打者をバタバタとなぎ倒していくほどでした。
そしてその豪速球は、オールスターゲームであの清原和博から「火の玉や」とコメントされたことから「火の玉ストレート」と呼ばれるようになりました。
藤川球児投手の凄さを語る上では欠かせないのが、このオールスターゲーム。
2006年の時に出場したオールスターゲームでは、藤川球児投手が「野球漫画のような世界を創りたい」との思いで、打者のアレックス・カブレラに対し、全球ストレートを予告。
そしてこの真っ向勝負に挑んだカブレラが一回もバットに当てることなく三振に倒れたシーンは球史に残る名場面として現在でも語り継がれています。このカブレラの後に続く小笠原道大にも全球ストレートで挑み、これも空振り三振に仕留めました。
そのシーンがこちら。
まさに力のぶつかり合いという感じで、オールスターゲームならではの光景ではないでしょうか。
その後のオールスターゲームに出場した際も、この全球ストレートを続け、藤川球児投手のオールスターゲームの象徴とも言われるほどとなりました。
今もなお、このストレートを武器に球界のクローザーとして投げ続ける藤川球児投手。
東京オリンピックの日本代表にも選出されるのではないか、という声が挙がるほど、まだまだ衰えを見せない投球でこれからもファンを魅了してほしいですね。関連記事はコチラ