2019年、今年はプレミア12が開催される予定ですが、今回はどんなドラマが生まれるのか、今から楽しみです。
オリンピックを除くと、2006年のWBCから、野球の世界大会が定期的に行われるようになりました。
2006年のWBC以降、野球の世界大会には、各国のプロの選手が参加するようになったのも、特徴的ですね。
我が国日本は、2006年のWBC、2009年のWBCと、史上初の世界王者と2年連続の王者になり、華々しいスタートを切りましたが、
主力選手のメジャー移籍によって、世界大会への参加が難しくなり、戦力ダウンとなるなど、近年は厳しい戦いが続いています。
そんな世界大会における日本代表ですが、毎回のように大きなドラマを生み、日本国中に感動を届けています。
今回は、そんな数々の感動のドラマの中から、2006年(第1回)WBCの準決勝・韓国戦に起きた「生き返れ福留」の名言について紹介していこうと思います。
生き返れ福留とは?2006年WBC名場面と呼ばれる理由について
生き返れ福留とは、2006年(第1回)WBCの準決勝・韓国戦の中継中に、実況アナウンサーが放った名言として今も語り継がれています。
この準決勝まで苦戦を強いられ、韓国相手に連敗していた中で臨んだ一戦。
準決勝は0-0で試合が進み、迎えた7回表。
日本が一死二塁のチャンスを作ると、今江敏晃の打席で、王貞治監督はこれまで大会成績19打数2安打、打率.105と不振に陥っていた福留孝介選手を代打でコール。
これまでの国際大会で勝負強さを見せていたものの、今大会で不振に陥っていた福留選手に対して、なんとか復活してほしい。そんな思いで送り出された福留孝介選手。
日本国中も、この均衡を破り、韓国に対してリードする展開を望んでいました。
そしてカウント1-1からの3球目でした。
当時のテレビ中継の実況アナウンサーであった、松下賢次アナウンサーがこのような期待を代弁するかのように「生き返れ福留!」と話した次の瞬間、福留孝介選手が放った打球は、キレイな放物線を描き、なんとライトスタンドへ突き刺さる、先制2ランホームランとなりました。
当時の映像がこちら。
当時の興奮がすごく伝わってきますよね。今でもこの映像を見て鳥肌が立つ方も多いかと思います。
この福留孝介選手の「復活の一打」で勢いに乗った日本は、一気に得点を重ね、結果この試合に6-0で韓国に勝利することに。
そして、決勝のキューバ戦に進むこととなり、見事優勝することとなりました。
当時の日本代表は、2005年にリーグ優勝・日本一となった千葉ロッテマリーンズの選手をはじめ、かなり若い選手を招集していました。
確かに勢いはあったものの、国際試合の経験は浅い選手が多かったため、ここ一番での勝負強さという意味で、王監督は福留孝介選手を送り出したと思われます。
まさに名采配とも言われるこの起用でした。
実は、この前のアメリカ戦で、タッチアップ時の離塁が早いと「誤審」された「ボブ・デービッドソン事件」の後ということもあり、チームはやや勢いを失ったような雰囲気もありましたが、
福留孝介選手の起死回生のこの一打は、まさにこれまでの暗い雰囲気も払拭する、伝説的な一打となりました。
福留孝介選手のプロフィール・経歴・成績
引用元:キャッチャーライナー
ここで福留孝介選手のプロフィールを、この時代をメインに振り返ってみようと思います。
福留孝介選手は、1977年4月26日生まれの42歳(2019年3月現在)。
2006年WBC当時は、29歳でした。
右投左打の投手。
身長は182cm、体重は88kgと、野球選手としては標準的な体型の選手です。
鹿児島県出身で、小学校からソフトボールを、中学で野球を始め、卒業後には当時名門のPL学園学園高等学校へ入学。
高校時代は、打ちに打ちまくり、高校生No.1スラッガーとして有名となりました。
そしてドラフト会議では、7球団から1位指名を受け、くじ引きの結果、近鉄バファローズが交渉権を獲得しました。
しかし、ドラフト前から「巨人か中日以外の球団に指名された場合は社会人野球に進む」と公言しており、福留孝介選手はその公言通り、近鉄バファローズの指名後に入団を辞退し、社会人野球の日本生命へ入社することとなりました。
入社後も活躍を続け、アトランタオリンピックには日本代表として出場しました。
アトランタオリンピックでは、2本塁打を放つなど、大舞台での勝負強さもアピールしました。
そして、1998年、社会人3年目にドラフト対象となった際に、中日ドラゴンズを逆指名し、入団を果たしました。
入団後は、社会人まで主戦場としていたショートのポジションで出場し、打撃では非凡なセンスを見せつける一方、三振の多さや守備の乱れなど、プロの世界では、粗さが目立つ選手でした。
その後、外野手にコンバートされると、2002年には首位打者を獲得し、その後も3割以上、本塁打も30本塁打を放つなど、球界を代表するスラッガーへと成長しました。
WBCに選出される直前の2005年シーズンも、打率.328、本塁打28本、打点103という成績を残し、最高出塁率とゴールデングラブ賞を受賞。
満を持してWBCに臨んだものの、WBC開幕から大不振となりました。
そして準決勝の韓国戦は、WBC開幕後初めてスタメンを外れた試合でした。
そこで放った決勝のホームラン。
WBC後の福留孝介選手は、2006年シーズンを打率.351、本塁打31本、104打点を記録し、首位打者と最高出塁率のタイトルを獲得しました。
そして2007年にメジャー移籍を果たし、海を渡り、アメリカでも活躍しましたが、レギュラーを確保できるほどではなく、2012年を最後にアメリカでのプレーを断念。
2013年シーズンから阪神タイガースでプレーを続け、42歳となった今でもプレーを続けています。
生き返れ福留の実況・松下賢次アナウンサーのプロフィール
引用元:講演依頼.com
松下賢次アナウンサーは、1953年3月2日生まれの66歳(2019年3月現在)。
2006年WBC当時は、53歳でした。
自称「世界の松下」と名乗っている通り、TBSのアナウンサーとして長年活躍しており、2013年からはフリーアナウンサーとして活躍をしています。
若い頃には、ザ・ベストテンなどの番組を担当する他、長年、ゴルフ中継やプロ野球中継を担当。
2006年当時は、TBSアナウンサーとしては晩年を迎えた頃であったが、その安定したアナウンス技術から、WBCの実況を担当しました。
そして準決勝の韓国戦での実況の一幕は、今でもなお、文字起こしされた形で、語り継がれています。
実況「生き返れ!福留!」
福留「」カキーン
実況「さあどうだあああああいったいったどうだどうだいったいったいった!」
衣笠「いったあああいった!(確信)いったあああああ~~~はっはあ~~!」
実況「代打2ラーン!やった福留えやっぱり福留うったあああああああ生き返ったぞ福留ええええ」
衣笠「あはぁ~~↑↑(裏声)はっ↑はっ→はっはぁあ~↓」
実況「ライトオーバーの2ランホームラーン!!花火が舞い上がる!!」
衣笠「あ~はっはっは、ああよかった(恍惚)」
実況「サンディエゴの夜空に花火が気持よく舞い上がりィッ!福留が生還したァッ!!」
衣笠「ああよかったなあ(二度目)」
実況「やりました!代打福留!起死回生の2ランホームランです!」
衣笠「あはぁ~(昇天)」
今ではフリーアナウンサーとして活躍をされている松下賢次アナウンサー。
CS放送されている野球中継などでは、ときたま登場もするそうです。
生き返れ福留の解説・衣笠祥雄のプロフィール
引用元:広島カープに鯉
衣笠祥雄氏は、1947年1月18日生まれ、2018年4月23日に71歳で亡くなられました。
2006年WBC当時は、58歳でした。
衣笠祥雄氏はなんと言っても愛称「鉄人・衣笠」に代表される、連続試合出場記録の記録保持者であります。
2215試合連続出場の記録を持っていますが、その長さは実に17年。
実に17年もの間、フル試合に出続けていた衣笠祥雄氏はまさに鉄人でした。
この記録は自身が引退するまで継続していた事にさらに驚きでもあります。
もちろん、出場記録もさることながら、20年連続で二桁本塁打を記録し、盗塁王と打点王も獲得しており、まさに広島東洋カープを代表する選手でありました。
衣笠祥雄氏が付けていた背番号「3」は現在永久欠番となっています。
そして、引退後はTBSの解説者として、出場している選手を気遣う発言、そして時より愛のある叱咤激励をする解説者として、多くのファンを持つ解説者として活躍しました。
2006年のWBCでは、前述した松下賢次アナウンサーとのやり取りとして、今なお語り継がれています。
数々の感動のドラマがあるWBC。生き返れ福留に始まるドラマは今なお、色褪せぬ初代WBC優勝時の記憶として今なお語り継がれています。