プロ野球の長い歴史の中では、数々の大記録が打ち立てられています。
しかし、近年では昔と比べ、分業制が進んだり、メジャーリーグへの挑戦も活発になっていことから、プロ野球記録の多くは昭和に打ち立てられたものが未だに破られていません。
特に投手に関しては、メジャーリーグでの活躍も見込めることや、先述の分業制がかなり進んでいることで、
現在と昔のポジションの違いが多くあることで、かつて打ち立てられた記録は「不滅の記録」として残っています。
そんな投手の大記録を打ち立てた投手の一人として挙げられるのが、阪神などで活躍した江夏豊氏です。
現役時代は、巨人のスター、球界のスターでもあった王貞治・長嶋茂雄の最大のライバルとも言われ、今日まで続くライバル関係とも言える「巨人・阪神」を作り上げたといってもよい、まさに「悪役」並の活躍を見せました。
引退後は、覚醒剤に手を染め、自身の輝かしい功績に泥を塗ってしまうような「黒歴史」もある江夏豊氏。
今回は、今日まで「伝説の投手」の一人として語り継がれる、江夏豊氏について紹介していきます。
江夏豊氏のプロフィール・出身地・経歴・成績について
引用:dmenu ニュース
江夏豊氏は、1948年5月15日生まれの71歳(2020年1月現在)。
身長179cm、体重90kgと公表されているですが、その数値よりもややふくよかな印象があります。
奈良県吉野郡出身で、生後まもなく、鹿児島県に住まいを移したそうです。
その後、兵庫県尼崎市に再び住まいを移し、小学校中学校と兵庫で過ごしてきました。
高校は地元・大阪学院大学高等学校に進学し、高校時代から、投手として活躍しました。
高校入学当初は、制球に難がある「荒れ球」が持ち味の投手であったそうです。
高校3年間では、甲子園大会に出場することはありませんでしたが、予選大会での活躍が数々のプロのスカウトの目に留まり、注目を浴びる存在となっていました。
そして1966年のドラフト会議で、阪神タイガース、読売ジャイアンツ、東映フライヤーズ、阪急ブレーブスの4球団から1位指名を受け、抽選の結果、阪神タイガースが指名権を獲得し、入団することになりました。
兵庫県に住まいを移してから、ずっと過ごしてきた地元の人気球団の阪神から指名を受けたことは、まさに運命を感じる結果ですね。
また、このとき、読売ジャイアンツも1位で江夏を指名していましたから、もし読売ジャイアンツが江夏の指名権を獲得したときの世界線はどうなっていたか。
この抽選の結果が、後に作られる「伝説の記録」の始まりだったのかもしれません。
阪神入団後、これまで自身の豪速球を武器に戦ってきた江夏豊氏は、変化球を習得しようとするものの、なかなか自分自身のものにすることができなかったそうです。
そしてなんと、そのまま変化球を習得しないまま、持ち前の豪速球だけを武器に、公式戦開幕を迎えました。
今の御時世では、とても想像がつかないことですが、いかにも「昔のプロ野球」といった逸話だなぁ、と感じます。
そしてプロ1年目は、この豪速球だけで、数々の三振を記録し、結果225奪三振を挙げ、シーズン最多奪三振を記録しました。
しかし、チームの援護になかなか恵まれなかったことで、勝ち星が伸び悩み、新人王のタイトル獲得とはなりませんでした。
その後も豪速球で並み居る打者を次々と打ち取り、数々のタイトルを獲得していきました。
しかし、江夏豊氏は、華々しい成績を飾るだけではなく、苦悩も多く経験していました。
江夏豊氏は、血行障害や心臓疾患が悪化し、薬を服用しながらのプレーとなりました。
この薬の副作用の影響で、体重が増加し、江夏豊氏は、これまでほどの成績が徐々に残せなくなっていきました。
そして、1976年に南海ホークスへのトレード移籍が発表され、涙ながらに阪神を去ることとなりました。
南海ホークス移籍後は、持病の影響で、長いイニングを投げることができず、苦しいシーズンが続きました。
その様子を見た当時の監督である野村克也氏は、江夏豊氏へリリーフへの配置転換を打診しました。
悩んだ末に、江夏豊氏は、1977年にリリーフへの転向を決めました。
この決断が、後にまた江夏豊氏が伝説を残す「第二の始まり」でもあったのです。
当時は現在ほど、リリーフ投手というポジションが確立されてえいなかったため、調整法なども手探り状態であったそうですが、
江夏豊氏は、メジャーリーグの調整法を仕入れながら、自分自身の手で、リリーフ投手というポジションの基礎を作り上げていきました。
そんな恩師とも言える野村克也氏が南海ホークスを退団することとなったことから、江夏も球団に対して放出を求め、江夏豊氏のリリーフ投手としての活躍の場は広島東洋カープへと移ることになりました。
広島東洋カープ移籍後は、リリーフ投手として、江夏豊氏は衰えない速球と、投球フォームの工夫などで打者を翻弄し、赤ヘル時代とも言われる広島東洋カープの黄金期の樹立に大きく貢献しました。
そして、日本ハムファイターズから広島東洋カープへ江夏豊氏の獲得打診があり、結果、自身3度目となるトレード移籍によって、日本ハムファイターズへの移籍が決まりました。
移籍初年に、リリーフエースとして活躍した江夏豊氏はリーグMVPを獲得しました。
この結果、江夏豊氏は両リーグでMVPを獲得するという史上初の快挙を成し遂げました。
そして1982年には、活躍の場をリリーフに移しながらも勝ち星を重ね、通算200勝を達成し、日本プロ野球名球会に入会を果たしました。
1983年のオフには、日本ハムでの恩師である大沢啓二監督が退団することを受け、江夏も同時に退団を球団に申し出ました。
結果、自身があまり希望としていなかった西武ライオンズへのトレード移籍となり、江夏氏自身、実に5球団目となるチームへ所属することとなりました。
しかし、晩年を迎えていた江夏氏の体調は優れなく、結果入院まですることとなりました。
そしてこの年限りで引退を表明した江夏豊氏は、引退試合も開かれることなく、現役生活にピリオドを打つこととなりました。
現役引退を表明した江夏豊氏は、翌年の1985年に、メジャーリーグへの挑戦を表明。
ミルウォーキー・ブリュワーズから招待選手として春季キャンプに参加しました。
マイナー契約一歩手前まで進んだものの、当時36歳という高齢であったことから、獲得が見送られ、日本初のメジャーリーガーの誕生とはなりませんでした。
結果、江夏豊氏は選手としてのプロ野球生活に完全ピリオドを打ち、華々しいプロ野球生活に終止符を打つこととなりました。
現役引退後は、プロ野球解説者として活躍する一方で、数々のテレビ番組にも出演するタレント活動も行っていました。
そんな最中、1993年に、覚醒剤所持の現行犯で逮捕されました。
実際に江夏豊氏は覚醒剤を使用していたとされ、懲役2年4ヶ月の実刑判決となりました。
釈放後は解説者として復帰し、2015年、2016年にはかつて所属していた阪神タイガースの臨時コーチとして現場復帰も果たしました。
江夏豊氏の今現在は?
御年71歳(2020年1月現在)となる江夏豊氏の今現在は何をしているのでしょうか。
前述の通り、現場での活動は2016年の阪神タイガースの臨時コーチが最後となっています。
2018年にかつての盟友・衣笠祥雄氏が死去した際のコメントでは「すぐに追いかける」とのコメントが出ていただけに現在がとても心配です。
解説者としての活動もあまり見られなくなっていることで、江夏豊氏の現在はどうなっているのでしょうか。
その他のメディアでの露出もあまり見受けられないため、かつてから闘病していた持病と戦っているのかもしれません。
現役時代から数えると、実に40年ほども闘病生活をしている江夏豊氏。
覚せい剤で蝕まれたその容態がとても心配ですね。
江夏豊氏の妻、嫁は?
引用:Pinterest
江夏豊氏に奥さんはいるのでしょうか。
調査を行ったところ、江夏豊氏には現在、奥さんはおらず、独身の生活を送っているようです。
現役時代には、旅館の一人娘であった女性と結婚していたそうですが、現役時代中に離婚をしていたそうです。
現役時代から「昭和のプロ野球選手」と言われるような、豪快な方であったことから、離婚に至ってしまったのかもしれませんね。
現在の状態が心配される中、奥さんもいない独り身で生活していることを考えると、ますます江夏豊氏が心配になります。
江夏豊氏の子供、家族は?
江夏豊氏には、前述の元奥さんとの間にお子さんがいらっしゃったそうです。
お子さんは2人いらっしゃったそうですが、元奥さんと離婚した際に、そのお子さんの親権は元奥さんに渡ったそうです。
もしかすると、お子さんとの交流は今はあるのかもしれませんが、現在のご関係については不明でした。
できれば、お子さんの近くで過ごしてもらいたいのですが、江夏豊氏はどう過ごしているのでしょうか。
江夏豊氏の伝説エピソードの数々について
引用:JIJI.COM
江夏豊氏を語る上で欠かせないのが「伝説のエピソード」の数々。
そのエピソードについて、いくつか紹介をしていきます。
江夏豊氏はルーキーイヤーに、1勝を挙げるごとに10万円のインセンティブが付与されていたそうで、この年に12勝を挙げた江夏は、実に120万円のインセンティブを獲得したそうです。
今とは時代が違うため、金額感が違う部分もありますが、現在で換算すると数千万円の出来高契約となっていたのかもしれませんね。
その後も持ち前の豪速球を武器に数々の三振を奪い、1968年9月には「不滅の記録」とも言われた稲尾和久氏の記録を塗り替えるシーズン354奪三振を奪い、日本1位の記録を樹立しました。
このとき江夏豊氏は「記録の三振は王貞治から奪いたい」と宣言し、タイ記録の三振と新記録の三振を狙って王貞治氏から奪うという離れ業で記録を樹立しました。
まさに「伝説」といったような逸話で、これもまた「伝説の投手」とした語り継がれる由縁であると思います。
この逸話にもあるように、江夏豊氏は王貞治氏をライバルとして意識し、とりわけ三振を奪うことに執着していたそうです。
結果、王貞治氏からは通算で57個の三振を奪ったそうですが、勝負に挑み続けた代償として、通算で20本もの本塁打を浴びたそうです。
フォア・ザ・チームという精神もなかなかない時代らしい逸話であると思います。
そして江夏豊氏を語る上で欠かせない「伝説の記録」といえば、1971年のオールスター戦です。
このオールスター戦に登板した江夏豊氏は、3イニングを投げ、すべての打者から三振を奪いました。
オールスターでの9者連続三振という、これまた「離れ業」をやってのけたのです。
その他の記録では、1973年の中日戦で達成したノーヒットノーランは、延長戦に及んだ末に達成した記録であり、この記録達成を決めたのは自らが放ったホームランによるものでした。
そして、江夏豊氏を語る上で欠かせない、もう一つのエピソードが、この広島東洋カープ在籍時に生まれました。
1979年にリーグ優勝を果たし、日本シリーズに出場した江夏豊氏は、日本シリーズ最終戦までもつれた末の9回裏に登板。
抑えれば日本一達成という場面で、無死満塁という絶体絶命のピンチを迎えてしまいました。
このピンチを見事に切り抜け、日本一を達成した一連のピッチングについては「江夏の21球」とも呼ばれ、プロ野球史の名場面として、今日まで語り継がれています。
数々の伝説の記録を打ち立てた江夏豊氏。現在どのように過ごしているか、非常に気になりますが、また元気な姿を見せてほしいですね。