本日は中日・ロッテで活躍された牛島和彦さん
高校時代はリーゼントでめちゃくちゃヤンキー監督時代はインテリヤクザと言われており、かなり怖い感じだったようです(^^;
本日はそんな牛島和彦さんのの伝説・武勇伝エピソードを紹介します。
文面だけで恐怖を覚える内容ですので、ご覧ください。
牛島和彦の出身地・経歴・成績等のプロフィール
引用元:四国新聞社
プロフィール
- 出身地 大阪府大東市
- 生年月日 1961年4月13日(59歳)
- 身長 177cm
- 体重 70kg
経歴
- 浪商高等学校
- 中日ドラゴンズ (1980年~1986年)
- ロッテオリオンズ・千葉ロッテマリーンズ (1987年~1993年)
- 横浜ベイスターズ【監督】(2005年~2006年)
通算年成績
- 登板395試合905.0回
- 53勝64負126S
- 防御率4.32
ということで牛島和彦さんのプロフィールはコチラ。
主に中日とロッテで活躍された方ですね。主にクローザーとして活躍された方で最優秀救援タイトルも1回受賞しています。
牛島和彦さんといえば何とも言っても球界のレジェンド落合博満さんとのトレードがプロ野球ファンには記憶に残っていると思います。
今では考えられないロッテ1人⇔中日4人の下記トレードが実現しました。
ロッテ・落合博満⇔中日・牛島和彦、上川誠二、平沼定晴、桑田茂
今ではこんなトレード絶対にありえませんね。当時FA制度がなかったので、大物選手獲得するにはトレードか契約でもつれて自由契約で獲得しかなかったんしょう。
(私が30代後半であまりこの辺の当時の仕組みは詳しくないですが…)
当時の本拠地であるナゴヤ球場近くの自宅を購入し、骨を埋める覚悟だった牛島和彦さん。そのためこのトレードには最後まで納得がいかなかったようです。
当時のパリーグ…しかもロッテというと人気もなく本拠地の川崎球場はガラガラでしたからね…。そこも移籍のネックになったと思います。
しかし当時の星野仙一監督の説得により、了承しました。
川崎球場の記事は↓で詳しく紹介してますのでこちらもご覧ください。
しかし2020年にはFAで福田秀平選手と美馬学選手をW獲得。進んでロッテ行きたいという選手が増えるようにまりました。
時代は変わりましたね(^^;
そして現役を終えた後は解説や評論家を経て、横浜ベイスターズの監督に就任します。個人的に私が記憶に残っているのはこの監督時代ですね。現役時代は子供だったので。
就任1年目の2005年に3年連続最下位のチームをAクラスの3位まで立て直します。これは正直すごかったですね。
その前の監督である山下大輔さん…通称大ちゃんが率いていた時は100敗する勢いのチームでしたからね(;’∀’)
しかし次の年の2006年には最下位となり、その責任を取る形で監督を辞任しました。ということで監督生活は僅か2年と短いものとなりました。
その後は解説者に復帰しました。
牛島和彦の伝説・武勇伝エピソード
牛島和彦さんには伝説・武勇伝というエピソードがたくさんありますので、紹介していきます。
高校時代、現役時代、監督時代でそれぞれまとめましたのでご覧ください。
牛島和彦高校時代の伝説・武勇伝エピソード「ベンチ敬遠無視」
まず高校時代のエピソードですが、ベンチからの敬遠無視というのが挙げられます。
甲子園でピンチにマウンド監督から伝令に来た選手に
「俺が抑えるから黙っとけ!」
一蹴。さらにテレビのインタビューでは「俺が無ければチームは絶対勝ちますから」と超ビックマウス。
高校生でこれはすごいですね。高校野球といえば上のいう事は絶対。先輩や監督言う事は逆らえないはず…しかも時代は昭和54年ということでその傾向はさらに強かったと思います。
その時代でこの態度はすごいですね(^^;
当時の心境を語った動画がYouTubeにありました。
バッテリーはドカベン香川さんと組んでいたんですね。知りませんでした。そしてその牛島さんとドカベン香川さんの写真が残ってました。
引用元:スポニチ
うーん、昭和50年代ということで今は絶滅危惧種のリーゼントですね(笑
見た目は完璧にヤンキーです(;’∀’)
ドカベン香川さんが心筋梗塞で亡くなった時は、52歳の早すぎる死に「悲しい」と素直な気持ちを吐き出しいました。
牛島和彦現役時代の伝説・武勇伝エピソード「稲尾和久に『わかりません』」
現役時代の牛島和彦さんの現役時代の伝説・武勇伝エピソードですが、稲尾和久さんの「わかりません」というエピソードがあります。
どういうことかと言うと牛島和彦さんが、ルーキー時代に当時の稲尾和久コーチを務めていました。神様仏様稲尾様と言われシーズン42勝も記録した伝説の選手ですね。
そんな稲尾コーチが投手陣に
「9回2アウト満塁カウント2-3からどんな球を投げるか?」
という質問をしました。
ほとんどの投手が自分の決め球をいう中で、ルーキーだった牛島和彦さんは
「どのような状況で2-3となったかによって、最後に投げる球も変わってくる。2-3となるまでの経緯がないと、最後の球も決められない。点差によっても投げる球は変わるし、一概に決められるものではない」
すごいですね(^^;
これをベテラン投手がわかりますが、当時ルーキーの牛島さんが言うのが。しかも稲尾さんに。
これには稲尾さんも自分の投球理論と合致していたそうです。
ルーキー時代からこのような投球理論があるからプロ野球の1軍で長く活躍できたのでしょう!
牛島和彦監督の伝説・武勇伝エピソード「アホか!次はないんじゃ!!」
そして監督時代の伝説・武勇伝エピソードですが、2005年の監督時代に5月28日の交流戦のロッテ戦で不審で7番から9番に降格されてしまった村田修一選手。
セリーグで9番?と思う人もいるかもしれませんが、交流戦でマリンがホームの試合ですのでDHで投手は立ちません。
そんな中で村田修一選手に
「9番の次の打順は何だ?」
と問いかけ村田選手が「1番です」
と答えたところ
「アホか!次はないんじゃ!!」
こええ…(゚Д゚;)
そしてそんな村田選手はこの試合で決勝タイムリー。ヒーローインタビューで「生死をかけて打ちました」と答えています。
何ともすごいエピソードですね。
ちなみにこの当時普段は優しくニコニコしてこのように豹変することがあり。2ちゃんねる(現在の5ちゃんねる)では「インテリヤクザ」と命名されてましたね。
…ということで本日は牛島和彦さんのヤンチャエピソードをお送りしました。いやー想像以上にすごいエピソードばかりでしたね。
牛島和彦さんの嫁や子供ついては↓の記事でまとめてますのでこちらもどうぞm(__)m
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