かつて野球界で‘怪物’と呼ばれ、日本にその名を轟かせた江川卓氏。
高校時代から驚異的な能力で他を圧倒し、引退まで多くの名勝負を繰り広げ、その活躍は現在でも語り継がれています。
そこで今回はその江川卓の凄さや引退理由など、様々な視点でご紹介していきたいと思います。
江川卓(元読売ジャイアンツ)のプロフィール(経歴,成績,出身地)
出典:http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180603-14
名前:江川卓(ヨミ:エガワスグル)
生年月日:1955年5月25日
出身地:福島県いわき市
身長:183センチ
体重:90キロ
投打:右投右打
経歴:作新学院高校-法政大学-作新学院職員-阪神タイガース-読売ジャイアンツ
幼少期いわき市で育ち、父親の転勤により栃木県小山市へ転居となった江川氏は、この時代では普通であった野球という競技を同年代の男子と同様に行い、自然に野球を覚え、中学から本格的に野球に取り組んでいきます。
中学時代からその才能を遺憾なく発揮しており、いくつかの強豪高校から勧誘があったものの、東京六大学の早慶戦に出たいという理由から、進学コースのある栃木県の作新学院へ進学します。
江川氏の全盛期は高校時代と言っても過言ではないくらい同氏の高校時代の活躍は凄まじく、公式戦ではノーヒットノーラン9回、完全試合2回、20完封、36イニング連続無安打無失点、防御率0.41、春夏通じて甲子園における奪三振率14.0、練習試合含めて145イニング連続無失点など、令和になった今でも破られていない記録も数多くあります。
ちなみに当時はまだスピードガンが無く実際の球速は不明ですが、当時の投球をスーパーコンピューターで解析したところ、160km/hだったと推定されていました。
1973年ドラフト会議において、江川氏を指名する球団があったが、本人は大学進学を希望し、法政大学へ進学(※慶應大学への進学を希望していたが、不合格となりました。)
法政大学でも1年目からエースとしてチームを牽引し、通算47勝、完封数17はリーグ記録、ベストナインにも6度選ばれ、通算奪三振数443という成績を残します。
1997年ドラフト会議。江川氏は「首都圏のセ・リーグ球団」であれば入団する意思はあったものの、福岡市を本拠地とする球団からの指名のため、これを拒否。そのまま作新学院職員となり、アメリカへ野球留学します。これは大学から社会人チームに入団すると、最低2年間はプロ野球入団が禁じられるため、社会人野球への選手登録をしないで翌年のプロ野球入団が可能な野球留学を選択したのです。
その後、後に「空白の1日」と言われる事件が起こります。この内容は複雑且つ長編になるので割愛しますが、ドラフト会議で江川氏を巡る事件として語り継がれていきます。
紆余曲折ありながら江川氏は阪神タイガースと契約しましたが、同日に巨人の小林繁氏とのドレードで巨人へ入団。当時のマスコミは江川氏を悪役に仕立て上げ、小林氏を悲劇のヒーローと評し、報道しました。
江川氏は厳しい風当たりの中、1年目は9勝に留まったものの、2年目には最多勝と最終防御率、3年目には最多勝で投手7冠を達成。その勢いで1987年の引退まで長く2桁勝利をあげ、活躍しました。
引退後は解説者を中心に活躍。現在も多くの野球解説を行なっています。
江川卓 引退が早い理由
出典:https://www.sanspo.com/baseball/news/20170303/npb17030308000001-n1.html
驚異的な能力があったものの、江川氏はわずか8年で現役を引退してしまいました。
実は江川氏は高校から肩を酷使しており、プロ4年目の82年途中には重度の右肩痛で引退を決意していたほど追い込まれていました。
その後中国針の効果で一時的には痛みが和らいだのですが、徐々に効き目が薄れ、全力で投げられない状況になっていました。
そんな矢先、1987年シーズン、巨人と広島は熾烈な優勝争いを続け、9月には巨人対広島の3連戦を迎えました。
この時、法政の後輩で広島で活躍していた小早川毅彦氏にヒット、そしてホームランを浴びます。江川渾身のストレートを後輩に打ち返された時、彼は引退を決意したそうなのです。
高校から自信を持って使ってきたストレートが通用しなくなったと感じた時点で、江川氏は自分の引き際を悟ったのでしょう。これは江川氏らしい最後だったのかもしれませんね。
江川卓の2020年現在は?
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江川氏は引退後の1988年から2020年の現在まで日本テレビの解説者を長く続けています。
江川氏の解説は決して巨人贔屓の解説では無く、常にフラットな状態で細かく解説をします。特に投手出身の目線から、ピッチャーのその日の状態を分析し、視聴者に分かりやすい解説となっている印象です。
日本テレビのスポーツ番組でキャンプ取材を行い、現役選手へのアドバイスも的確な言葉のようで、常に現場復帰の声は高いようですが、2020年もコーチ依頼は来ていないようです。
今年の現場復帰はありませんが、近い将来、巨人のコーチ陣に名を連ねることもあるかもしれませんね!
江川卓の凄さとは
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江川氏の凄さの1つとして言われているのが、「ストレートが来るとわかっていても打てない」ということです。
かつて高校時代に対戦経験のある達川光男氏は、
「投げる球はクセで見抜いていた。直球かカーブしかなかったわけだしね。ただ、投げる球がわかっていても打てなかったのは江川だけだった」
と証言。
後にお互いプロの世界に飛び込み切磋琢磨していましたが、江川曰く、
「お前には一球も全力で投げたことない。50%くらいの力だったかな。」
と述べ、江川氏の凄さを改めて認識することになりました。
こういった証言がある通り、「江川のストレート」は野球界史上最強のストレートだったのかもしれませんね!
江川の伝説
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平成の怪物・松坂大輔と言われる前、「元祖・怪物」と呼ばれた江川氏。前述した通りとんでもない記録を数多く残した江川氏ですが、実際にその凄さとはなんだったのでしょうか?
その凄さの特徴は「ストレート」の威力です。幼少期に父の真似をし川で対岸に向かって石を投げ続け、直ぐに大人の飛距離に遜色なく投げれるようになり、この日課が江川氏の地肩を強くしたと言っても過言ではありません。
高校時代150km/h近いストレートで多くの強豪校を倒しましたが、甲子園出場経験がないのもある意味「伝説」です。そして高校時代に残した数々の記録は未だに破られていないというのは、やはり江川氏の高校時代全てが伝説なのかもしれませんね。
江川卓 球速の最速は170km?
出典:https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=20390940
江川氏が活躍した高校時代はまだスピードガンが存在しておらず、当時の実際の彼のストレートの速さの正確さはわかりません。
一説には170km/hを記録したと言われていますが、実際のところはそこまでは出ていないでしょう。しかし、現代の技術の発展により解析したところ、160km/hは出ていたそうです。
スピードガンがない時代、江夏豊、堀内恒夫、金田正一など多くの速球派投手が活躍しましたが、彼らも160km/h以上の球速を出していたと言われていますが、170km/hを記録した選手はいません。
読者さんの情報だとNHKが画像解析で「163Km/h」出ていたそうです!
しかしこの先、さらにすごいピッチャーが生まれ、170km/hを記録する選手が出て来るかもしれません。そうなった時はプロ野球界がさらに盛り上がるでしょう!
◇堀内さんは自身で「映画フィルムのコマ割り分析かで157Km/hだった」と証言。
◇江川さんは昨夏、NHKが画像解析で~「163Km/h」と。
◇サッシー(酒井圭一)の中継映像を持っていますがえげつない。※予選、先頭打者から連続16人三振の完全試合。予選55回無失点で甲子園に進出し、ベスト4に勝ち残る。
そのサッシーと同日に甲子園で2年生の星稜・小松投手も見ましたがスピードはそん色なかった。
昨夏の甲子園解説で前智辯和歌山監督の高嶋氏が「対戦した中で一番速かったのは小松君。155~160Km/h出ていたんじゃないでしょうか」と。※昨夏の智辯和歌山のエースはMAX151KM/h。
◇江川さんの甲子園の中継映像(対柳川商戦/2時間ダイジェスト)を持っていますが、リリース直後にボールがワープし、次いきなり打者の目の前にある感じ。誰がどう見ても奥川君よりずっと速い!NHKの「163Km/h」には納得。
◇「補足」
・140イニング連続無失点を2回記録。
※両方甲子園で途絶える。
・達川氏は江川の球を「バレーボールくらいの大きさに見えた」といい、また練習試合で対戦した北別府氏は「(3球)まったく見えなかった」と対照的な発言。
・プロ生活は9年間。
・皆が触れないが「東京六大学時代」の記録もとんでもない!
シュガー麗さん
詳しい情報ありがとうございます(^^
球速記事に追加させて頂きました。
改めて江川さんすごいですねー(;´∀`)