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古田敦也のすごさは筋肉にあり?若い頃の成績や盗塁阻止率,現在や今について

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球界には、名だたるキャッチャーがたくさんいます。

その中でも、平成を代表するキャッチャーであったのが、ヤクルトスワローズの古田敦也氏ではないでしょうか。

トレードマークのメガネ姿で、巧みなリード。

打っては、打率を3割以上を残すヒットメーカーであった古田敦也氏。

現代において「キャッチャーが打てることの必要性」を改めて感じさせてくれる希少な存在だったのではないでしょうか。

今回は、そんな球界に名を馳せる、古田敦也氏について紹介していきたいと思います。

古田敦也氏の出身地・経歴・成績・プロフィールについて

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引用:週刊ベースボールONLINE

古田敦也氏は、1965年8月6日生まれの55歳(2020年12月現在)。
身長182cm、体重80kgと、プロ野球選手の中では、標準的な体格をしています。

兵庫県川西市出身で、小学校中学校と地元兵庫で過ごしてきました。
古田敦也氏は、小学校3年生の時に地元の少年野球チーム「加茂ブレーブス」に入団したことをきっかけに野球を始めることとなりました。

この「加茂ブレーブス」は地元でも有名なマンモス野球チームで、所属している小学生は全体で100人ほどもいたそうです。
今は少子化の時代ということもあり、少年野球チームが消滅・合併などが頻繁に起きていますから、まさに野球全盛期であった昭和の時代を感じさせられますね。

古田敦也氏は、入団してまもなく、最下層である「Dチーム」に振り分けられ、その「Dチーム」にはキャッチャーがいなかったことから、古田敦也氏が指名され、キャッチャーをやるようになったそうです。
後に球史に名を残す名捕手のキャッチャーとしての始まりが、このようなチーム事情によるものであったとは意外ですね。

キャッチャーとしての素質を小学生の頃から開花させた古田敦也氏は、中学校に進学すると、地元での注目選手となり、私立高校をはじめ強豪校からも入学の誘いがあるほどまでに成長しました。
しかし、古田敦也氏は、自宅から近い地元の公立高校への進学を選択し、中学卒業後は、兵庫県立川西明峰高等学校に進学しました。高校時代は、入学した高校のレベルもあり、地元では全く評価のされない選手で、甲子園出場もならず、ドラフトでの注目も全くと言っていいほどない、無名の選手として、高校生活を過ごしました。

古田敦也氏は、大学受験も野球での推薦枠が用意されていたわけではなく、一般入試を受験すべく受験勉強も行いました。
結果、一般入試では、関西大学と立命館大学に合格し、野球を続けるつもりであった古田敦也氏は、当時立命館大学よりも強豪であった関西大学への進学を一度は決めましたが、立命館大学側の熱心なアプローチと、京都の街に魅せられた古田敦也氏は、一転、立命館大学へ進学することとなりました。

立命館大学に進学後は、大学受験の影響もあ、視力が低下、古田敦也氏はメガネをかけるようになりました。これが後に古田敦也氏のトレードマークとなるメガネ姿の始まりでした。
大学通算では、77試合に出場し、打率.308、8本塁打、44打点をマーク。巧打だ光るキャッチャーとして成長しました。結果、関西学生リーグのベストナインにも4度選出され、リーグを代表するキャッチャーとなりました。

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この成績や、大学野球の日本代表にも選出されたことから、プロのスカウトにも注目される選手となり、日本ハムファイターズからの指名内定の連絡をもらいましたが、ドラフト会議では、日本ハムファイターズをはじめ、どの球団からも指名を受けることがなく、まさかの「指名漏れ」で大学卒業を迎えることとなりました。
この指名漏れを受けて、古田敦也氏はプロ野球の世界で活躍する意向がさらに強くなり、大学卒業後は、トヨタ自動車に入社し、社会人野球への道へ進むこととなりました。

トヨタ自動車入社後は、1年目からレギュラーキャッチャーとして活躍し、ソウルオリンピックの日本代表にも選出されました。
そして、この活躍に目を留めたヤクルトスワローズのスカウトが指名の意向を古田敦也氏に伝えました。
指名までには、当時の監督であった野村克也氏が指名に消極的な姿勢を見せ、指名見送りの窮地に立たされながらも、スカウトの熱心な説得もあり、無事1989年のプロ野球ドラフト会議でヤクルトスワローズから2位で指名を受け、入団することとなりました。

プロ入団後は、キャッチャーとしての素質を見抜いた監督・野村克也氏が早くから古田敦也氏を1軍で抜擢。野村克也氏自身のそばに座らせながら、キャッチャーとしての勉強をさせることで早期の戦力化に成功し、シーズン早々からレギュラーの座を獲得しました。
そして、レギュラーの座を確固たるものとした古田敦也氏は、2年目に大きく開花。
課題とされていた打撃も打率.340を記録し、大打者・落合博満氏と打率でデッドヒートを繰り広げた結果、見事首位打者のタイトルを獲得しました。

キャッチャーとしての首位打者のタイトル獲得は、当時の監督であった野村克也氏以来、セ・リーグに限れば、史上初という快挙を成し遂げました。
そしてその後は、キャッチャーという過酷なポジションの宿命でもある怪我と戦いながら、確実性の高い打撃、堅実なリードと攻守に渡り、ヤクルトスワローズの扇の要として長きに渡り活躍しました。

2005年には、通算2,000本安打を記録し名球会入りを果たしましたが、この年のオフに大きな転機が訪れます。
当時の監督であった若松勉氏の監督退任に伴い、後任の監督候補として古田敦也氏の名前が挙がりました。

そしてやがてヤクルトスワローズから監督就任の打診を受けた古田敦也氏でしたが、まだ現役への未練もあったことから、球界では29年ぶりとなる選手兼任監督としてヤクルトスワローズの指揮を執ることになりました。
選手兼任監督就任1年目は、超攻撃的オーダーを武器としながら、指揮を執り、選手としても36試合に出場しましたが、チームはリーグ3位という結果に終わりました。

そして選手兼任監督2年目は、自身の怪我もあり、試合にはほとんど出場することがなく、チームは最下位に沈んだことに責任を取る形で、現役引退と監督辞任を球団に申し出ました。
ヤクルトスワローズ退団後は、解説者として活躍し、主にテレビ朝日系列のテレビ中継の解説を務めています。

 

古田敦也氏のすごさや逸話について

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引用:日刊スポーツ

名球会入りも果たし、球史に名を残している古田敦也氏。数々の凄さや逸話が語られていますが、古田敦也氏の凄さといえば、やはりメガネを掛けた選手として最も大成したことが言えるのではないでしょうか。

古田敦也氏は、これまでにご紹介した通り、大学受験時に視力が悪化したことをきっかけにメガネを掛けるようになったわけですが、当時は「メガネを掛けている選手は活躍しない」というレッテルが貼られていました。

そのことから、大学時代に「指名漏れ」を経験することにもなり、ヤクルトスワローズが指名を検討した際に、野村克也氏が指名に消極的な姿勢であった理由にも「メガネを掛けている」ということがネックになっていたようです。

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しかし、恩師・野村克也監督の指導や、本人の努力が実を結び、名キャッチャーとなったわけです。古田敦也氏がメガネを掛けて大成したことをきっかけに、多くの「メガネ選手」からは「古田敦也氏のおかげで野球ができている」と感謝を伝えられることが多くなったそうで。まさにメガネ選手のパイオニア的存在と言えるでしょう。

古田敦也氏といえば、野村克也氏から指導を受けたことで「ID野球の申し子」との異名が付けられていることが有名で、頭脳派キャッチャーとしての印象が強いですが、打撃についても数々の逸話があります。

その中の1つとして驚きなのが「対戦相手のピッチャーによってバットを替える」ということです。多くのプロ野球選手は、自分に合ったバットを、いかなるピッチャーが相手でも変えずに打つことがほとんどです。

これは、バットを振る感覚、打つ感覚が異ならないように、基本的にはシーズンを通して同じものを使う選手がほとんどですが、古田敦也氏の場合は、対戦相手のピッチャーの特徴に合わせて、長いバットや短いバットを使う、という様にこまめに替えていたそうです。

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今でもなかなかそのような選手は出てきていないので、この特殊な感性で首位打者を獲った古田敦也氏はやはり大物であったということなのだと思います。

他にもまだまだ古田敦也氏に関する逸話はたくさんあるので、是非調べてみて下さい。

古田敦也氏の筋肉について

現役時代を含めて、あまり「マッチョボディ」として有名ではなかった古田敦也氏。

現役を退いて10年以上にもなる古田敦也氏ですが、現在も衰えないその筋肉美が話題となっています。

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引用:Twitter

これはとある番組での温泉ロケの様子ですが、ご覧の通り、現役引退しても尚、鍛え上げられたボディがとても印象的です。

かつて、TBS系列で放映していた「筋肉番付」という体力自慢が集まるスポーツバラエティ番組にも出演経験がある古田敦也氏。

思い返してみれば、頭脳だけではなく、鍛え上げられた身体も活躍の源となっていたのかもしれませんね。

古田敦也氏の現役時代、若い頃はどんな成績?盗塁阻止率は?

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引用:Baseball Gate

冒頭でご紹介した通り、古田敦也氏はドラフト指名までは、苦労もあり時間を要したわけですが、プロ入り直後から、華々しい成績を残しています。

その華々しい成績は1年目から残しており、なんとルーキーながらリーグ1位の盗塁阻止率とゴールデングラブ賞のタイトルを獲得しているのです。

2年目には、ご紹介の通り、首位打者の獲得もありますが、オールスターゲームでは、相手走者を3度も刺し、MVPを受賞していたのです。

3年目には、これまたオールスターゲームで、史上初のサイクルヒットを記録し、2年連続のMVPを受賞しました。

そして4年目には、シーズンMVPを獲得し、なんと.644の盗塁阻止率を記録しているのです。

この盗塁阻止率は現在でも破られていない記録で、相当の強肩であったことが証明されています。

現在のプロ野球では、福岡ソフトバンクホークスの甲斐拓也選手が「甲斐キャノン」として名を馳せていますが、その甲斐拓也選手でも破ることができていない盗塁阻止率を古田敦也氏は樹立しているのです。

他にも、1試合4本塁打や日本シリーズMVP受賞、そして名選手の証である通算2,000本安打の達成など、記録にも記憶にも残る成績を残してきたのが古田敦也氏でした。

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これまでご紹介した、頭脳派キャッチャーや、確実性の高いバッティングの他に、キャッチャーの見せ所でもある強肩ぶりも発揮していた古田敦也氏。

思えば、プロ野球において、最後の選手兼任監督となったのが古田敦也氏であり、この希少な役職は今後のプロ野球において、二度と存在しない可能性だってあるわけです。

やはりかなり球史に名を残すキャッチャー、そして偉大な記録を残してきた野村克也氏の愛弟子であることがよくわかりますね。

 

古田敦也氏の現在、今について

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引用:サンスポ

選手兼任監督として東京ヤクルトスワローズに在籍し、引退・退任した後は、解説者やテレビ番組への出演を行っている古田敦也氏。

数々のメディア出演は絶えることなく行っている印象ですが、プロ野球の現場からは、この選手兼任監督の引退・退任を最後に遠ざかっています。

プロ野球の監督辞任報道の後の後任候補として、古田敦也氏の名前が度々挙がっていますが、未だ現場復帰には至っていないのが現状です。

今回ご紹介したように、数々の記録を樹立し、選手としても卓越した技術を持っていた古田敦也氏。まだまだ指揮を執るチャンスはたくさんあるはずですから、是非今後の野球界の発展のために、プロ野球の監督としての復帰や、若手の指導に尽力してもらいたいですね。

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