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後楽園球場は狭い?広さやスコアボード,最後の試合や跡地について調査!!

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今や当たり前ともなったドーム球場。
その先駆けとして誕生したのが、東京ドームでした。

今では全天候型球場として、野球をはじめとするスポーツの試合はもちろん、アーティストのコンサートや様々なイベントが行われています。

東京ドームを本拠地とするのは、おなじみの読売ジャイアンツですが、
東京ドーム誕生前はどのような球場を本拠地としていたか、皆さんご存知でしょうか。

昭和のプロ野球界からファンである方なら、当たり前なことかもしれませんが、平成生まれの野球ファンにとってはあまり馴染みがないかもしれません。

実は、東京ドームの誕生前には、現在の東京ドームと程遠くない距離に「後楽園球場」という屋外球場が存在していました。

昭和のプロ野球を振り返る場面で、王貞治や長嶋茂雄が活躍していた頃の映像がよく流れますが、あの球場こそ「後楽園球場」なのです。

今では「東京ドーム」が当たり前になっていますが、昭和のプロ野球を牽引してきた読売ジャイアンツはこの「後楽園球場」を本拠地とし、数多くの巨人ファンが詰めかけました。

今回は、そんなプロ野球の歴史を語る上では外すことのできない、歴史ある球場「後楽園球場」について紹介していきたいと思います。

後楽園球場の広さ・両翼はどのくらい?

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引用:週刊ベースボールONLINE

まず、皆さんが過去の後楽園球場の映像を見た印象としては「広さはどのくらいだったのだろう」と思うのではないでしょうか。

後楽園球場の広さを歴史と共にお伝えをすると、
後楽園球場は現在のプロ野球が誕生したとほぼ同時期、1936年に「後楽園スタヂアム」として誕生しました。

開場当時の広さとしては、内野席に23,000人、外野席に15,000人の収容観客人数を可能としており、これは現在のプロ野球においても、なかなかの収容人数でした。
当時から日本の野球に対する熱狂ぶりが、この収容観客人数からも感じられます。

もともとはこの土地に「東京砲兵工廠」と呼ばれる日本陸軍の兵器工廠があり、兵器の製造を行なっていたそうです。
そこが移転し、国有地として空き地になった場所を読売新聞や阪急電鉄の出資を元に買収を行い、後楽園スタヂアムが誕生しました。

もともとは国有地、そして戦前であったことから兵器もたくさん製造されていたため、球場を建設するには十分な土地があったというわけです。

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そして、気になる両翼の広さですが、開場当初の両翼はなんと78mしかありませんでした。
そのことから、当時の球場としても狭い球場であったことから、当時のプロ野球界でも「ホームランがよく出る球場」としてファンからも人気のあった球場であったそうです。

1937年の記録でも、開場後に82試合が開催され、84本の本塁打が出たそうです。まさに1試合に少なからず1本のホームランは出る計算になります。
ちなみに当時他の球場でもプロ野球の試合は開催されていましたが、他の球場では113試合に24本のホームランしか出ていませんでした。

そのことからも後楽園スタヂアムは「ファンに楽しんでもらえる球場」として多くの試合が開催され、1949年まで行われたプロ野球4,988試合のうち、実に2,033試合がこの後楽園スタヂアムで開催されました。

当時はまだ「ホームランが出る球場」がファンに喜ばれるという発想から、多くの試合が開催されましたが、当時の投手はこの後楽園スタヂアムで投げるのはさぞかし嫌だったに違いありません。

また、他の球場と比べても広さに大きな違いがあることも、今のプロ野球とは大きく異なる点かもしれません。

その後、後楽園スタヂアムは改修をされ、公称では90mまで拡張されましたが、実測はそれよりも狭く、わずか87.8mしかありませんでした。

後楽園球場は狭い?その比較と王貞治の関係について

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引用:JIJI.COM

これまで述べたとおり、この後楽園球場(後楽園スタヂアム)は当時としてもかなり狭い球場であったことがわかります。

収容観客人数については、3万人を超える観客を収容できることから、見る側にとってはそれほど狭い球場ではありませんでした。
現在のプロ野球の球場と比べても、千葉ロッテマリーンズが本拠地とするZOZOマリンスタジアムの収容観客人数は30,118人、東北楽天ゴールデンイーグルスが本拠地とする楽天生命パーク宮城の収容観客人数は30,508人ですから、
当時としては、十分大きい球場であったことがわかります。

しかし、野球をやる側にとってはやはりかなり狭い球場でした。
両翼の広さを現在のプロ野球の球場と比べると、現在「狭い」球場であると言われている、横浜DeNAベイスターズの本拠地・横浜スタジアムの両翼は、94.2m、阪神タイガースの本拠地・阪神甲子園球場の両翼は95mなので、
後楽園スタヂアムの開場当初の両翼・78mと比べると、約20mも狭いことになります。改修後の両翼・87.8mと比べても約8mほど狭いことになります。

また、この後楽園球場(後楽園スタヂアム)はグラウンドの排水のため、外野に向かっていくにつれ下るような傾斜がついていました。
屋外球場ではこのように排水のため、傾斜がついていることは珍しくないのですが、この後楽園球場は打者にとっては「打ち下ろす」ような構造となっており、スタンドインしやすい構造であったと言えます。

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そして、この「ホームランが出やすい球場」という利点を存分に活かしたのが、読売ジャイアンツであり、当時所属していた王貞治でした。
王貞治というと、未だ破れられていない記録である日本球界最多の868本塁打を放っており、その多くをこの後楽園球場で放っています。

この後楽園球場で王貞治は、数々の記録のホームランを放っており、
1959年のプロ入り第1号に始まり、この年には、初の長嶋茂雄との「ONアベックホームラン」を記録。
また、1974年には最後の「ONアベックホームラン」もこの後楽園球場で放っています。

王貞治自身の節目のホームランはこの後楽園球場でまだまだ続き、
1976年には、ベーブ・ルースの通算本塁打数に並び、超えるホームラン。
そして翌年の1977年には、当時の世界記録であったハンク・アーロンの通算本塁打数に並び、超えるホームランを放ちました。

その後も世界初の800号、850号、そして自身の現役生活の最後に放った868本塁打目もこの後楽園球場で放っています。
当時の映像として、王貞治が放ったホームランのほとんどがこの後楽園球場での映像であったのも、そもそもこの後楽園球場で多くの本塁打を放ったことがその原因になっているわけです。

このことから「王貞治はこの狭い後楽園球場を本拠地としていたから、大記録を打ち立てることができた」という意見も多くあり、王貞治自身も「現代の球場であれば、同等のホームランを放つことはできなかった」と話しています。

もちろん、現代にはこの後楽園球場よりも広い球場が多く存在しているので、王貞治本人が話している通り、同等のホームランを記録するのは難しかった、という見方もある一方で、
後楽園球場の両翼はせまいながらも、左右中間の深さは他球場と同等であったこと、そして改修後には外野のフェンスが高くなったことでホームランの出やすさという意味では、他の球場とは遜色ない状況であったそうです。

そのため、必ずしも王貞治が大記録を打ち立てることができたのは球場のおかげだけではなく、王貞治本人の野球技術の高さもしっかりと評価するべきである、という意見も多くあります。

確かに球場の広さに加え、フェンスの高さもホームランの出やすさには大きく影響する部分ですから、そこまで考慮すると後楽園球場は決して「狭すぎる球場」であったというわけでもなさそうですね。

後楽園球場のスコアボードは?画像はある?

野球場にとって欠かせない設備が「スコアボード」。

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現代ではフルスクリーンタイプのスコアボードも数多く登場しており、球場に「あって当たり前」の設備となっていますが、スポーツ興行としては、これをなくしては成り立たない必要不可欠の設備と言えます。

そんなスコアボードですが、後楽園球場のスコアボードはどのような遍歴を辿ってきたのでしょうか。

後楽園球場開場当初は手書きによるスコアボードが用意されており、イニングはなんと15回まで表示できるようになっていたそうです。
過去には、延長28回という現代では考えられないほどまでの延長戦が繰り広げられていたこともあり、15回までの表示であってもそこまで違和感はなかったようです。

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引用:週刊野球太郎

その後、数回マイナーチェンジが行われたものの、電光掲示板での表示形式となったのは1970年のことでした。
この時には、プロ野球にも延長イニングに制限が設けられたこともあり、表示可能イニング数は10回までとなりました、

そして1985年にはオーロラビジョンが設置され、そのオーロラビジョンでは選手を鼓舞するような文字が表示されることもあったようです。

電光掲示板が導入されることは当時としては、まさに最先端であり、次世代的な表記であったようですが、文字のドット数は現代のようにきめ細かいものとは程遠く、粗いものだったそうです。
したがって、1文字の画数が多い漢字表記のある選手名は表示することが不可能であったため、カタカナやひらがなを用いて表現をしていたそうです。

現代では、LEDパネル等によって、きめ細かい映像を映し出すことができるスコアボード・バックスクリーンが主流となっていますが、この頃は文字を表現するのがやっとという感じだったようですね。

ここで後楽園球場で使われていたスコアボードの画像を見てみましょう。

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引用:週刊ベースボールONLINE

文字の表現はお伝えしたとおり、なかなか「昭和」を感じるものとなっていますね。
加えて、周りを装飾する広告についても、現代のような写真などは用いられておらず、レトロな文字での表現となっており、ここも「昭和」を感じるものとなっています。

後楽園球場で行われた最後の試合、最後のホームランは?

後楽園球場が閉場となったのは1987年11月のことでした。
この閉場直前に行われた最後の試合はどのような試合だったのでしょうか。

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まず、最後に行われたパ・リーグの公式戦は、1987年の10月13日に行われた、日本ハム対近鉄戦でした。
当時、後楽園球場をフランチャイズ球場としていたのは、読売ジャイアンツだけではなく、日本ハムファイターズもフランチャイズ球場としていました。
後楽園球場に代わって新設された東京ドームでも同様の2球団によるフランチャイズとなり、日本ハムファイターズが北海道に移転するまで続きました。

このパ・リーグ公式戦では、近鉄の吉井理人(現・千葉ロッテマリーンズ1軍投手コーチ)がプロ初完投勝利を挙げています。

最後のセ・リーグ公式戦は同年10月18日の巨人対広島戦。
この試合では、巨人の吉村禎章(現・巨人1軍作戦コーチ)が、審判を含む全員のカウント勘違いにより4ボールからのホームランを放つという珍事が発生しました。
このホームランが公式戦で放たれた最後のホームランとなりました。

その時の貴重な映像がありましたので、こちらで御覧ください。

そして、NPB主催試合として最後の試合となったのが同年10月30日に行われた日本シリーズの巨人対西武戦。
最後にマウンドに立っていたのが当時西武に在籍していた工藤公康(現・福岡ソフトバンクホークス監督)で、最後の打者は巨人の篠塚利夫(現・野球解説者)だったそうです。

NPBが主催する公式戦はこの日本シリーズが最後の試合となっていますが、閉場記念イベントとして行われたOB戦が開かれたのが、最後の「試合」として記録されています。

後楽園球場の跡地は何?現在はどうなっている?

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引用:中日スポーツ / 東京中日スポーツ

後楽園球場に代わって新設されたのが東京ドームでした。
しかし、東京ドームは後楽園球場で試合が行われていた当時から建設が始まっており、後楽園球場での最後の試合が行われる頃には、すでにほぼ完成していました。
当時の映像からも、後楽園球場に少し食い込むような形で東京ドームが建設されています。

すなわち、現在の東京ドームは後楽園球場の跡地に建設されたものではないということです。
では、後楽園球場の跡地には何ができているのでしょうか。

後楽園球場が解体された直後は駐車場として利用されていたそうです。
その後再開発が行われ、1990年には多目的ホールとして利用されているプリズムホールが開場。
2000年には東京ドームホテルが開業しました。

現在、水道橋駅方面から歩いて東京ドームへ向かうあたりが、かつて後楽園球場があった付近となっています。

現在では跡形もなく整備されている後楽園球場。
しかし、日本プロ野球では7,172試合が開催され、生まれたホームラン10,416本は、現在でも球場別ランキングの第1位となっています。
この後楽園球場はかつて来場し熱狂したプロ野球ファン、そしてテレビの前で応援していたプロ野球ファンの記憶の中に在り続けることでしょう。

POSTED COMMENT

  1. ストレーカー専務 より:

    後楽園球場のホームベースからスコアボード迄の距離はわかりませんか?若い頃テレビで見た中日デービス選手のスコアボード上の時計台を遥かに越えるホームランの距離も知りたいです。

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